『南洋島で生きる』(チョ・ソンユン編著, 堂山書院, 2017)//ハンギョレ新聞社 |
南洋諸島と呼ばれた時期は、第1次大戦直後に日本がドイツ領だったここを委任統治することになって始まった。1945年まで日本はこの地域に南洋庁を設置して、事実上の植民統治を行い、太平洋戦争直後からは東南アジア侵略など南進論の拠点として活用した。
最近出版されたチョ・ソンユンの編著『南洋島で生きる』(堂山書院)によれば、朝鮮人は日本が委任統治を始めた直後から南洋諸島に労働移住をしたとなっている。下関にあった西村拓殖会社が「地上の楽園」「別世界」として、全羅道光州(クァンジュ)で90人余りを募集し、続いて朝鮮半島東北部の咸鏡道出身者が二陣で入島し、5年契約で仕事をしたのが南洋諸島と朝鮮人の最初の出会いだ。続けて沖縄県出身の労働移民が大挙行われ、太平洋戦争期には朝鮮人の強制連行が続いた。
『南洋島で生きる』は、1939年南洋貿易株式会社に入社しヤシ農場の管理員として仕事をしたチョン・ギョンウンの版本が異なる二冊の回顧録を、チョ・ソンユンが発掘・入手し校閲を経て出版した。彼は朝鮮の五山学校、日本の東京高等拓殖学校を卒業し、サイパン島のあるマリアナ諸島に入島した。多くの島でヤシ農場管理員として仕事をして、日本人、沖縄人、原住民のチャモロ人とヤシ油の原料であるコプラの加工・収穫に従事した。日帝の敗戦以後、サイパンにいた1400人あまりの朝鮮人は祖国に帰還したが、彼はサイパンに残り余生を送り、今回出版された自叙伝を残した。
『南洋諸島』(チョ・ソンユン著, 東門通書房, 2015)//ハンギョレ新聞社 |
太平洋戦争の勃発直後には、日本の海軍と満州から転出した関東軍が配置され、軍・官・民の総力戦体制が構築される。この過程で起きる民族間葛藤の様相に関する叙述も印象的だ。日本が敗戦した後、民族別に隔離収容されたサイパンの捕虜収容所で、チョン・ギョンウンは1400人余りに及ぶ朝鮮人自治会の司法主任としての仕事もした。捕虜収容所には慶尚道70%、全羅道20%、済州道7%、忠清道・江原道3%の割合で、出身地域が異なる朝鮮人がいた。占領米軍の中には、ハワイ移民者2世出身の韓国人兵士もいて、民間捕虜との仲介役をしたと記録されている。1946年になると、捕虜収容所の朝鮮人は祖国である朝鮮半島に帰還するが、チョン・ギョンウン氏のようにチャモロ人と結婚した少数の朝鮮人、あるいは諸々の理由で祖国帰還を避けた何人かの朝鮮人はそこに根をおろすことを決心する。
イ・ミュンウォン文学評論家・慶煕大フマニタスカレッジ教授//ハンギョレ新聞社 |
イ・ミュンウォン文学評論家・慶煕大フマニタスカレッジ教授
韓国語原文入力:2017-11-17 19:50
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/819581.html 訳J.S(1538字)