字夢のノート(공책)/日本語の勉強屋

海を抱いる題目の響き声 -팔라우에서 만나다

자몽미소 2015. 7. 29. 10:42

「 海を抱い題目の響き声 」

 

今年の1月に主人と私はパラオに行ってきました。主人の研究のテーマがそこにあったので、調査の旅行でした。主人の研究のテーマとは, 19141945の南洋の歴史特にパラオで暮らした日本人と韓国人達のヒストリーことです。私達は 今も旧南洋庁舎があるコロール市内に泊まりました. コロ-ルの市内にはあちこちに旧日本軍の戦争遺跡が残っていました. 70年前ではなく何年間戦争があった思いほど ,遺跡には昔の戦争の傷痕がそのまま生かしていました.

 

ある日、電話帳でパラオのSGI会館を捜し、やっと会員と繋がりが出来ました. あった後知りましたが、初めて電話を受けてくださった人はパラオ政府の大統領特別補佐官を務めたパラオ人女性でした。彼女は, アメリカに留学した時メンバになってパラオに戻った後、2000年にはパラオSGを立てて、今まで代表を担当しました。私達を会館まで連れて行ってくださった人は日本人女性で、20年前パラオに移住した人です.

 

初めて会った日、お互い自己紹介をするうちにまるで古くからの友人みたいな感じがして、とても不思議でした. 主人が宗教の研究として、<創価学会と在日韓国人>と言う本を出版した事も 喜びして頂いました. 英語と日本語を交えて話しながら創価学会について、池田先生の話しや学会の活動、パラオの社会慣習と社会問題、女性の苦しさなどにも議論ができました。それを乗り越える考え方SGIの力があると話しまとめました.

会館は 私達の泊まっている所から歩いて10分もな掛からないところにありました.それで 私達がパラオに泊まっている間、四回くらいそこでパラオの会員様と会えました. 会館は会員の集まり以外にもパラオの学生達にも門戸を開けていました. 会員の知り合いが学校の先生なので勉強をもっとしなければならない学生を授業後、家に帰る前、会館で集まれて、 ボランティアとして手伝っていました. 忙しい両親が出来ない事を会館が空いている時間を利用して役に立つ活動をしていました. 会館は、会員かないかを尋ねず 助けが必要パラオの学生達に教育の機会を与えていました. 街の隅には今でも戦争の記憶が残っているけど, 新しい世界を創って行こう意思が思い当たってました. 凄惨な戦場から乗り換えて平和の世界を作る1つの活動でした。

 

 70年前、パラオに住んでいた日本人はアメリカに追い越されました. 戦争で負けた事がその理由で、そこで創設した町,,,, 家族の墓もそのまま置いて日本に戻りました. 戦争の中, 生命を守る事は誰でも難しかった時代でした.日本国内は勿論,国外の人間すべてが死の洞穴に押し込められた時期です.

しかし、戦争が 人の心まで潰す事は出来ないはずです. そんな例の話はたくさんあると思います. 私はパラオの会員との付き合い時, 苦しかった時間を平和の道で広げる様に頑張った人生の話を聴けました。

 

今からはパラオのSGI会員の中川さんから聴いた話です。

中川さんは20年前、日本からパラオに移住しました.お父さんと二人きりです.

お父さんは少年時代、家族と共にパラオに住み、学校もパラオで通いました.

家族全員がパラオの一番大きい島のバベルダウプにあった村に住んでいて、中川さんのお祖父さんは特に農業指導をしたそうです.ところが 戦争が起き、疎開になされ危ない海を渡って日本に戻りました。ある船は沈没され、船に乗っていた人々全員が亡くなった事もありました。中川さんのお父さんは船が爆撃に受けられた時、海の上で 8時間ほど必死に泳げ、やっと救われたそうです。

戦争後の苦しい時間の青春期に創価学会に入信、結婚と仕事、奥さんとの死別、一人で育ちながら停年になあった年、中川のお父さんはパラオで余生を過ごしたいと決心しました。そのきっかけは幼いころのパラオの友たちとの同窓会でした。

それで中川さんは一人で日本に居るか、お父さんと共にパラオに行こうか、悩みした。そのうち、中川さんに新しい所に行って新しい人生を生きようと心が出て来ました。

その時、もはや30歳になった娘と60半ばのお父さんは、パラオの南の方の小さい島、ペリリューで二人きりの生活を始めました。その島は太平洋戦争時、沢山の人々が命を失われて 言わば、島が墓だと呼ばれるところでした。

その時ペリリューには日本人は中川さんの二人、創価学会会員も二人しかいませんでした。創価学会だって誰も知らない、パラオ全体としても会員はその二人しかいませんでした。

 

最初、中川さんの島の生活は思ったよりご苦労。夜になっても盗人の恐れのせいで眠られない状態でした。その島はこっそり栽培する麻酔の花があったのでそれをとった人は夜になると薬のせいでぼんやりしたそうです。そんな恐ろしさを耐えられるようすることは題目しかなかったそうです。昼になったら家のすべての窓を開けぱなしで 大きな声で<南無妙法蓮華經>を提唱する一日だったそうです。

しかしながらも、中川さんのお父さんはその時点でまるで第二の人生を向き合って活発な一日でした。戦争のことで研究するためや観光ため日本から人々がその島を訪問したからです。その人に案内をしてあげたいの心で歴史やら社会やら勉強に入ったそうです。

パラオに移住した時の中川さんの夢はその国と日本の間でつながりの役割をしたい、それで題目の祈りもそれだったそうです。題目のお陰でやがて中川さんには日本旅行会社の仕事ができて、ペリリュ島からコロール市内に移動した後、好きな男性と結婚もしました、10年前からは日本大使館の仕事にも縁ができて、パラオに行ったときの夢が次々と達成されしました。

 

その20年の間、2人しかなかった創価学会パラオ会員は200名に増えました。パラオの人口は2万くらいで主な宗教ならカトリックしかし、創価学会会員がだんだん増え、会館は信心と教育と人との集まりところで使われていました。私がしばらく間に訪問した時も人たちの間で流れる信頼と情けの深いが感じました。

 

そこで私は一人の熱心な信心が皆様を支える力に変更する事を見たようです。人から人々へ、それが社会に又は世界のためにも役に立つことでした。今年の4月に天皇さまが70年前、凄惨な戦争場だったペリリュー島訪問して慰霊式を行いました。慰霊の念は世界の平和でした。

そのことを聞きながら、日本とパラオの間で何かの役割をしようした中川さんの夢が思い出しました。お祖父さん時代の日本とパラオの関係今度は平和教育と文化の力で 結び、将来の窓を開けたとも思われました。