字夢のノート(공책)/日本語の勉強屋

3년간의 작문연습 (25회)-写真の中の家族史

자몽미소 2018. 9. 22. 15:22

 

家族史写真からの.docx



えるこのている。ろにして四人ているこの先週から、世界的有名になった。北朝鮮会談北朝鮮われた翌日訪問したこのところはいわば、朝鮮民族である百頭山。その頂上には自然池があり、<百頭山天池>とばれている。から的場所としめているそので、二人からの平和つくりの約束をもっとんだ。また、その行動北朝鮮、アメリカ、日本、または全世界発信した。


  1910日本植民地になってそれから36年間日本統治され、1945には植民地から解放になったが、国内戦こって、しながらつのけてしまった。とソ時代つのはおいのになった。政治教育てが北朝鮮だとしていた。北朝鮮からの侵略準備しなきゃならないと教育けた。こったらどうして、避難するかをえてもらった。一回のことに反公軍練という名前争体をした。子供たちは争軍練にどんどんれてきた。ないたちは軍練時間には先生げていたずらをしながんだ。政府国民訓練しく要求した。いつでも北朝鮮軍戦闘んでくることを想像させた。だが、そんな一回もなかった。


  学校年生の1979大統領くなった。そのニュスをラヂオでいたからすぐ北朝鮮戦闘をすることを心配した。その大統領まれてからずっと大統領なので大統領だった。ラジオでも、テレビでもその大統領しかてない、幼年大統領るなんて想像ができなかった。でも、死亡したから北朝鮮けるだろうとい心配くなった。そのかでいところでれた。あえて、政治系にはしい期待まれた。しい権力者になれるか、きがまった。でも、く、にはまたの軍部まった。


  大統領は18年間国民利用して権力っていただった。がそれををつけるまでない時間必要だった。民主主義だとじたが、てがそうではないかるまでも時間必要だった。北朝鮮子供じにある権力者国民であった。くない権力者にはよくない。教育新聞がその権力者のためにきながら、真実すからだ。その時代国人としてごしてきた。


  それで、朝鮮半島しくける段階ったとがする。世界平和民主主義真面目えているリダがそのためれているからだ。両方国民希望じだ。までは世界のせいでされたがおいの平和めて協力しようとしている。から朝鮮半島自主目指している。世界政治関係にアメリカのせいでそれはしいことになるが、北朝鮮がおいのではなたりだ。時代可笑しいけてってからたりもうとしている。


  なぜ、それが一日にもくできなかったか。それは国力なかったしい運命だった。運命はまたない民衆運命になってしまった。としてされた70相互しい家族史ってしまったことを今更想起する。離散家族になったことはそのしい家族史つだ。一回れてから永遠えない家族きるえる希望さえせない。その家族がいる。


  ,またつの家族写真ている。のこのは1964られた。両親結婚まれて成長するうちにったたちだ。てが親戚なのだ。しかし、その一人一回もあったなかった。その昔話みたいにくだけ、すこし秘密はそののことをいてきた。


  だ。1964日本決心をした。いつでも貧乏生活いているのがだったはおぐために日本くようと決心したのだ。その日本復興期だった。国戦からわずか10なかった、そのでの生活では将来えなかったらしい。しかし、その日本国交正常化ばなかった。日本地かったが正式移動手段がないので方法利用した。方法密航だった。日本れて日本海岸いたら、また、日本警察からげる。そのない行動貧乏からきたい希望があったこそきった。叔父さんも家計こしたい、貧乏生活からきたいのきな希望をもってないってった。


  祖母さんは自分息子日本前日った言葉に一回だけしてくれた。は、 


“おさん、10だけをってください。10年後はおさんのでしょう、そのります。おいでおもちでるから、ってください。、10だよ。成功してるよ”


 周辺の人には言わなくて小さな孫の私にしか自分の悲しみを見せなかったお祖母さん。 お祖母さんは亡くなった1996年まで別れた息子を逢えなかった。32年の間、お祖母さんの胸の底には会えない息子への思いがどのくらい募ったか。


 


  彼は1964年、日本に行く危なげな冒をした。結果は失敗になった。彼は警察に捕まれ容所に送られた。そっこで彼は考えた。いま、韓国に搬送されたら自分には北の方のスパイの疑いでまた逮捕されると。自分の真実より国家の反政策に利用されながら騙されることにがついた。


その時の韓国政府は反共政策でしかった。大統領は朴正熙、 朴正熙は1979年に友たちに殺され亡くなるまでの18年間の長い集権とともに恐怖政治をした。反共主義を前面に立てて自分の権力をけた。私の叔父さんは 朴正熙の政治的な意図と行動を分かっていたと思う。所で選地を選ぶ機会がたられたとき、叔父さんは北朝鮮を選んだ。その理由の一つはしい韓国が怖いから、もう一つは北朝鮮にお父さん、つまり私のお爺さんが生きている事を聞いたからだ。叔父さんは南のお母さんがいる故る事を諦めて、お父さんが生きている北朝鮮に行こうと決心した。それが自分の身を安全に守る事にもなったからだ。


  私のお爺さんはもっともっと日本で暮らしをした。青年時代に済州島から日本に移住してお金を稼いた。結婚生活も日本でして4人の子供を儲けた。太平洋戦争が終わり、の供に国した。しかし、った故の島は4.3事件という内戦き込まれた。それから逃げろうと家族を連れて韓国の本土にまた移住したが、その地も韓国の争にき込まれた。お爺さんは争地に連行され、行方不明になった。幼い子供を育ちながらお祖母さんは待っていたが、10年以上待ってもお爺さんはらなかった。お祖母さんが30代の時のことだった。ない旦那を念して島の故った若い女性。しかし亭主いない家は貧乏の日々になった。


  私の父から自分の弟の事を聞いたエピソドはすくないがその話しの中で想像できる叔父さんはとても素敵だ。頭も良くて性格も優しい。勉強が上手だが進学を出なかった。その叔父さんの一番の希望は哀しくて貧乏な母が豊かな生活できるように自分がお金を稼ぐ事。成功して家計を起こす事だったかもしれない。希望だけで終わった夢だった。加えて母と永遠に会えない状態に落ちてしまった。


  写真の中の白い服を着る人が私の叔父さんだ。22の青年は朝鮮総連の方に助けて北朝鮮に行った。そこで死んだと思った父を会えた。その話を私の家族は日本に住んでいる総連系の親戚からこっそり聞いた。私のお祖母さんは息子を通して亭主が死なかったことを知るようになった。それは嬉しいことに違いないが、息子が会えない地に行ってしまったことが判明された。お祖母さんには旦那と息子を失う事になった。国がしい壁を立てる限り二人をられることは不可いなった。それはお祖母さんがなくなるまでもいた。


お祖母さんが息を引き取る時、私はお祖母さんの傍で座っていた。苦しみながら目が閉じらないお祖母さんを見ている村のお祖母さんたちが言った。


“もう、めなさい。息子を待ってるのを今はしないて、早速、天国に行きなさい。”


  北朝鮮と韓国の会談は前の大統領の時にも何回はあったが、それが両方の自由な移動までは出なかった。それで時間は流れ、で離れ離れされた家族はどんどん亡くなった。大きな歴史の中、小さな家族の話は何もないことかも知れない。でも、歴史は何か。小さな人間たちの人生が集まってから世界の歴史になるのだ。一人の話が悲しかったら、その家族の話は悲しい。哀しい家族が生まれた時期の世界史は人々の運命を不幸に投げ込んだ。今回の会談、集まり、平和のための動きが是非、成功するよう祈りする。私はお祖母さんのわりに北朝鮮の地を訪問してお爺さんと叔父さんの生きてきた痕跡を踏みたいと精一杯思っている。







 

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