湖が見えるこの写真を観ている。青い湖を後ろにして四人が立ているこの写真は先週から、世界的に有名になった。韓国と北朝鮮の首脳会談が北朝鮮で行われた翌日、訪問したこのところはいわば、朝鮮民族の象徴である百頭山。その山の頂上には自然池があり、<百頭山天池>と呼ばれている。昔から神霊的場所として認めているその山と湖で、二人の首脳は今からの平和な国つくりの約束をもっと深く結んだ。また、その象徴的な行動を韓国と北朝鮮、アメリカ、日本、中国、または全世界に発信した。
1910年に日本の植民地になってそれから36年間日本で帝国に統治され、1945年には植民地から解放になったが、韓国内戦が起こって、戦争しながら二つの国と分けてしまった。米国とソ連の冷戦時代に二つの国はお互いの敵になった。政治、教育、社会の全てが北朝鮮を鬼の国だと話していた。幼い頃の私も南の韓国が北朝鮮からの侵略を準備しなきゃならないと教育を受けた。戦争が起こったらどうして、避難するかを教えてもらった。一ヶ月の一回のことに反公軍練という名前で戦争体験をした。子供たちは戦争軍練にどんどん慣れてきた。戦争を知らない私たちは軍練の時間には先生の目を逃げていたずらをしながら遊んだ。政府は全国民に毎月の訓練を厳しく要求した。いつでも北朝鮮軍の戦闘機が飛んでくることを想像させた。だが、そんな事は一回もなかった。
私が中学校3年生の1979年に韓国の大統領が亡くなった。そのニュースをラヂオで聞いた私は今からすぐ北朝鮮の戦闘機が攻撃をすることを心配した。その大統領は私が生まれてからずっと韓国の大統領なので私の大統領だった。ラジオでも、テレビでもその大統領しか出てない、私の幼年に別の人が大統領の席に座るなんて想像ができなかった。でも、彼が死亡したから北朝鮮の攻撃を受けるだろうという私の心配は何も無くなった。その時も秋の空は静かで雲が高いところで流れた。あえて、政治系には新しい期待が生まれた。誰が新しい権力者になれるか、活発な動きが始まった。でも、運悪く、韓国にはまたの軍部の人が政権を掴まった。
私の大統領は18年間、国民を利用して権力を持っていた人だった。私がそれを気をつけるまで少ない時間が必要だった。我の国は民主主義の国だと信じたが、全てがそうではない事を分かるまでも時間が必要だった。私は北朝鮮の子供と同じにある権力者の国民であった。良くない権力者の悪い事が世の中にはよく見えない。教育や新聞や社会がその権力者のために働きながら、真実を隠すからだ。その時代を私は韓国人として過ごしてきた。
それで、今、朝鮮半島は新しく道を開ける段階に入ったと気がする。世界の平和と韓国の民主主義を真面目で考えているリーダがそのため力を入れているからだ。両方の国民の希望も同じだ。今までは世界の列強のせいで分断された国がお互いの平和を求めて協力しようとしている。今から朝鮮半島は本当の自主独立を目指している。世界の政治関係、特にアメリカのせいでそれは難しいことになるが、韓国と北朝鮮がお互いの適国ではない事実は当たり前だ。米ソ冷戦時代の可笑しい状態を抜けて行って今から当たり前の道を開け進もうとしている。
なぜ、それが一日にも早くできなかったか。それは国力なかった哀しい国の運命だった。国の運命はまた力ない民衆の運命になってしまった。敵国として流された70年の間に相互の人々は悲しい家族史を持ってしまったことを今更、想起する。分断で離散家族になったことはその悲しい家族史の一つだ。一回、別れてから永遠に合えない家族。生きる間、会える希望さえ話せない人々。その中に私の家族がいる。
私は,また一つの家族の写真を見ている。黒白のこの写真は1964年の春の我が家の庭で撮られた。私の両親の結婚写真の中の人々は後、私が生まれて成長するうちに逢った人たちだ。全てが私の親戚なのだ。しかし、その中の一人は一回もあった事なかった。その人の話は昔話みたいに聴くだけ、すこし秘密な話で私はその人のことを聞いてきた。
彼は父の弟だ。1964年、彼は日本に行く決心をした。いつでも貧乏な生活が続いているのが嫌だった彼はお金を稼ぐために日本に行くようと決心したのだ。その時の日本は戦後の復興期だった。韓国戦争の休戦からわずか10年も過ぎなかった韓国、その中の南の島での生活では将来が見えなかったらしい。しかし、その時、日本と韓国は国交正常化が結ばなかった。人々は日本地に夢を掛かったが正式な移動手段がないので別の方法を利用した。国の目を欺く方法、密航だった。日本の行く船の底に隠れて日本の海岸に着いたら、また、日本の警察の目から逃げる。その危ない行動は貧乏から抜きたい希望があったこそ出きった。私の叔父さんも家計を起こしたい、貧乏生活から抜きたいの大きな希望をもって危ない道に入って行った。
お祖母さんは自分の息子が日本に行く前日、残った言葉を幼い私に一回だけ話してくれた。彼は、
“お母さん、10年だけを待ってください。10年後はお母さんの還暦でしょう、その時、帰ります。お金を稼いでお金もちで帰るから、少し待ってください。後、10年だよ。私、必ず成功して帰るよ”
周辺の人には言わなくて小さな孫の私にしか自分の悲しみを見せなかったお祖母さん。 お祖母さんは亡くなった1996年まで別れた息子を逢えなかった。32年の間、お祖母さんの胸の底には会えない息子への思いがどのくらい募ったか。
彼は1964年、日本に行く危なげな冒険をした。結果は失敗になった。彼は警察に捕まれ収容所に送られた。そっこで彼は考えた。いま、韓国に搬送されたら自分には北の方のスパイの疑いでまた逮捕されると。自分の真実より国家の反共政策に利用されながら騙されることに気がついた。
その時の韓国政府は反共政策で厳しかった。大統領は朴正熙、 朴正熙は1979年に友たちに殺され亡くなるまでの18年間の長い集権とともに恐怖政治をした。反共主義を前面に立てて自分の権力を続けた。私の叔父さんは 朴正熙の政治的な意図と行動を分かっていたと思う。収容所で選択地を選ぶ機会が当たられたとき、叔父さんは北朝鮮を選んだ。その理由の一つは厳しい韓国が怖いから、もう一つは北朝鮮にお父さん、つまり私のお爺さんが生きている事を聞いたからだ。叔父さんは南のお母さんがいる故郷に戻る事を諦めて、お父さんが生きている北朝鮮に行こうと決心した。それが自分の身を安全に守る事にもなったからだ。
私のお爺さんはもっともっと日本で暮らしをした。青年時代に済州島から日本に移住してお金を稼いた。結婚生活も日本でして4人の子供を儲けた。太平洋戦争が終わり、終戦の供に帰国した。しかし、戻った故郷の島は4.3事件という内戦に巻き込まれた。それから逃げろうと家族を連れて韓国の本土にまた移住したが、その地も韓国の戦争に巻き込まれた。お爺さんは戦争地に連行され、行方不明になった。幼い子供を育ちながらお祖母さんは待って続いたが、10年以上待ってもお爺さんは戻らなかった。お祖母さんが30代の時のことだった。来ない旦那を断念して島の故郷に戻った若い女性。しかし亭主いない家は貧乏の日々になった。
私の父から自分の弟の事を聞いたエピソドはすくないがその話しの中で想像できる叔父さんはとても素敵だ。頭も良くて性格も優しい。勉強が上手だが進学を出来なかった。その叔父さんの一番の希望は哀しくて貧乏な母が豊かな生活できるように自分がお金を稼ぐ事。成功して家計を起こす事だったかもしれない。希望だけで終わった夢だった。加えて母と永遠に会えない状態に落ちてしまった。
黒白写真の中の白い服を着る人が私の叔父さんだ。22歳の青年は朝鮮総連の方に助けて北朝鮮に行った。そこで死んだと思った父を会えた。その話を私の家族は日本に住んでいる総連系の親戚からこっそり聞いた。私のお祖母さんは息子を通して亭主が死なかったことを知るようになった。それは嬉しいことに違いないが、息子が会えない地に行ってしまったことが判明された。お祖母さんには旦那と息子を失う事になった。国が厳しい壁を立てる限り二人を戻られることは不可いなった。それはお祖母さんがなくなるまでも続いた。
お祖母さんが息を引き取る時、私はお祖母さんの傍で座っていた。苦しみながら目が閉じらないお祖母さんを見ている村のお祖母さんたちが言った。
“もう、辞めなさい。息子を待ってるのを今はしないて、早速、天国に行きなさい。”
北朝鮮と韓国の会談は前の大統領の時にも何回はあったが、それが両方の自由な移動までは出来なかった。それで時間は流れ、戦争で離れ離れされた家族はどんどん亡くなった。大きな歴史の中、小さな家族の話は何もないことかも知れない。でも、歴史は何か。小さな人間たちの人生が集まってから世界の歴史になるのだ。一人の話が悲しかったら、その家族の話は悲しい。哀しい家族が生まれた時期の世界史は人々の運命を不幸に投げ込んだ。今回の会談、集まり、平和のための動きが是非、成功するよう祈りする。私はお祖母さんの代わりに北朝鮮の地を訪問してお爺さんと叔父さんの生きてきた痕跡を踏みたいと精一杯思っている。
아닝ㄹ
'字夢のノート(공책) > 日本語の勉強屋' 카테고리의 다른 글
번역:오키나와와 이민 (0) | 2018.11.23 |
---|---|
昔の村で泣いている少年/3년간의 일본어작문연습/10월분(26회) (0) | 2018.10.19 |
3年間の作文練習(24)-小さくて小さな個人の歴史 (0) | 2018.08.28 |
3年間の作文練習(23)-自慢話から明日へ (0) | 2018.07.18 |
日本語と共に成長する/3년간의 일본어작문연습( 22회) (0) | 2018.06.26 |