字夢のノート(공책)/日本語の勉強屋

昔の村で泣いている少年/3년간의 일본어작문연습/10월분(26회)

자몽미소 2018. 10. 19. 19:14

昔の村で泣いている少年


先週は主人の仕事に連れて韓国の本土の都市、 益山(イクサン)に行ってきた。そのところは韓国の新宗教である圓仏教の聖地だと呼ばれている。その宗教団体の学校である圓光大学も 益山(イクサン)に位置してある。主人はその大学で行われたシンポジウムに参加するため、わたしにも共に行くことを誘ってきた。 私の行きたがる場所に行けと誘った。一回も訪問た事がなかったその場所は、今は亡くなったお祖母さんとお爺さんの昔の家だった。それで、一回もあった事なかったお爺さんのようにその家は昔の、昔話の家だった。なので、その家は黒くて深い夜の夢の道にあったところだった。今はいなくなった人たちの家だから、探してみようとも思わなかった。その家と私の間に何の関係があるのか、考えもしなかった。

主人が関わるシンポジウムのタイトルは、東北アジアの戦争遺跡と平和教育だった。日本の東京、奄美大島からも研究者が来て活発な議論とコメントが行われた。辛かった戦争の記憶をどうしたら後世に伝えるか、戦争を記憶させる場所と物は平和にどう役割ができるか、両国の研究家の話が戦争の遺跡を平和教育に活用する方法に纏められた。彼たちの話を聴きながら、私の家族の歴史に韓国戦争があった事、特に済州島の4.3事件のせいで済州島からこのイクサンというところに逃げた事が連結していると気がした。戦争の危ないところから安全のところに逃げる避難、私のお爺さんとお祖母さんは家族を守るようにこの地に寄せたのだ。昔、昔、その話はもはや70年の前のことだ。

 1910年から朝鮮は日本帝国の植民地になった。その時、朝鮮の南の島である済州島の田舎で生まれた私のお爺さんは、少年の時期から自分の夢を持って待って日本に向けた。彼が20年代になると、済州島には日本の大阪に通う船が出てきた。その船は島を回りながら日本で働く人々を集まった。青年のお爺さんは当たり前のようにその船に乗った。少し後は、両親のお勧めで村の女性と結婚もした。私のお祖母さんになるその女性も結婚するまで大阪の紡績工場で働いていた。大阪に住んでいた二人は一時的に故郷に戻って結婚式を上げ、すぐ大阪に行って新婚生活を始まった。その後、お爺さんは弟を大阪に呼んだ。お祖母さんは先ず日本に着ていた親戚の中で幸せな新婚を送っていた。ドンドン、済州島から人々が集まってお爺さんとお祖母さんの周辺は済州島の村のように変わってきた。

 私のお父さんの兄弟も3男1女になり、日本での祖父母の結婚生活は豊かだった。お爺さんは腕がよかった、家具つくりの職人だった。お父さんの姉である私の叔母さんの話によると、お祖母さんは日本の着物も注文して作らせて持っていたそうだ。日本にお金稼ぐために移民した祖父母は夢の暮らしをしていた。それが続けたら、私のお父さんと兄弟は幸せな家族として日本の地で生きたはずだ。

しかし、それではなかった。太平洋戦争が起きて何年後、日本は敗戦した。なんの理由があったか、今の私は知らないが、敗戦後、お爺さんは急に帰国をすることを決めた。彼は日本で稼ぐしたお金を故郷の発展に使用しようと、決心した。お爺さんは船を借りた。そこには引越しの荷物と家族、工場の機械も載せられた。ふるさとに戻った彼は第二の夢である故郷発展のため、故郷の一角に新しい木材工場を作った。日本の家のように二階の建物も作り、工場のなかで木を切る機械が動くとき、お爺さんはまだまだ若かった。工場が突然火災に巻き込まれたまでには自分の前の黒い運命が待っていることなって知るわけがなった。

 工場が火災に無くなってから失望したお爺さんに今回は済州島の不思議な雰囲気が気になって始まった。後にそれは4.3事件と呼ばれる大きな内戦だ。その事に済州島の3万人以上が殺されるか、行方不明になった。気が細かったお爺さんはそのまま島に残ったら安全じゃないと判断した。また、家族連れの引越し、船を借りて今度は韓国の本土の地に行った。そこでまた家を買って、土地もかった。今からは安全だろうと彼は思った。

 しかし、それもうまくできなかった。本土に引越しをした3年後、朝鮮戦争が起こった。お爺さんは北朝鮮軍につかまれ、以後、行方不明になった。4人の子供は毎日お父さんを待ちながらお母さんと暮らした。イクサンは私の祖父母が済州島から避難したところであり、幼いお父さんが10年くらい住んでいたところだった。

 私はお父さんから聞いた祖父母の家の昔の番地をクグルの画面で探してみた。新しく地の番号が付けられたその画面をお父さんに見せた。お父さんは通った学校、田んぼの位置、住んだ村の模様などをすらすら話した。

 主人のシンポジウムを後にして私は一人でお父さんの住んだ村を訪ねた。村の老人会館に行って昔からこの地域に住んでいた人を探したところ、隣の家に住んだ人を二人逢えた。お父さんの学校にも行ってみた。家と学校の間の距離は歩いて10分くらいだった。少しは登り道のその道を歩きながら少年のお父さんを想像した。

 お父さんはよく話した。中学校に行けなくて寂しかったと。隣の友たちは中学校の服を着て学校に通うのに、貧乏の自分はいけないから悲しさが悔しさに変わってしまった事も。成績なら進学に十分なのに家庭の経済のせいでいけなかった学校。

 お父さんは、母親の生活力にいつも気にした。親父がいなくても母親の生活力があったら子供に教育の機会を支えるとずっと思ってきた。その考えには自分のお母さんに対しての怒りが感じられる。それでそうだった。私が幼い頃からお父さんは私の進学の道を決めた。“教師になれ!”お父さんの強くて硬い意見に私は長い期間、負けながら、性格違いに葛藤してきた。

 お父さんの幼い頃の友たちをあって、少年時代のお父さんについて伺った。学校の成績がよかった事。病気で頭の髪が真白になって、顔も白い点で障害状態だった事を聞いた。自分の体の皮膚病でいつも怯む姿のお父さんが見える気がした。 友たちとお父さんは私の電話で顔を見ながら話した。少しだけの記憶だけないと言いながらも二人の老人はすぐに子供の時代の話に落ちていた。ドンドン、周辺の子供と先生の名前が呼ばれて安否を伺った。電話の同窓会になって話す内容が増えてきた。今になって遅いが、お父さんのところに来て良かったと思った。

 シンポジウムを終えて家に戻り、両親に会った。一日の午後をお父さんの昔話を聞いた。幼い頃からの話には哀しさと怒りがあったが、私の耳には少年の泣き声に聞こえた。戦争後の貧乏のお母さんの下で自分の心を表現できなく、励むことなく成長した少年。長男だから自分の義務ばかり背負った少年は、自分の前に座って自分の話を聞く人が娘ではないように思うようだ。私の話を聞いてくれ!、昔の時間に戻ったので自分の頭にあったもの、心に残ったもの全部を話したいと思ったか、お父さんの熱心な声にはこんな事が二回は出来ないような切迫感も会った。なぜかというと、幼いときのことは恥ずかしいので、話したくないこともあるらしい。

 それで私も私の前の老人をお父さんではなく一人の歴史を聞くような心で聞いた。その方が、長い間、私とお父さんのお互いの葛藤に解決の方法が見える感じだった。


/ 김미정 (2018년 10월 19일)