字夢のノート(공책)/日本語の勉強屋

3年間の作文練習(23)-自慢話から明日へ

자몽미소 2018. 7. 18. 16:02


自慢話から明日へ

 

SNSで村上春樹さんの一言を読んだ。健全な自信感と不健全な高慢のあいだには薄い壁しかない、と言う彼の言葉が私にやんわり注意をしている気がした。これまで、自慢にはならないようにと気をつけても、あっという間に私は自慢をしている。今日までで二週間になるが、その間、私は一日でも自慢をしなかった日がない。普通、連絡をしなかった友人にも、ラインやらメッセージで私の出来事をお知らせてきた。自慢がしたくて久しぶりに連絡たが、皆が喜んでくれた。友人に自慢をした後は、地元の新聞記者にも報道資料を書いて送った。地方の新聞に載せられるように要請するためだ。新聞に記事が出た。それを読んで知り合いから連絡が来た。その報道資料をまた、主人の大学の担当者にも送った。それが主人の勤めている大学のホームページにも載った。主人の知り合いからの連絡を主人が受けて、その話を私に伝えてくれた。私の自慢は私の住んでいる島に広がった。それで、私の鼻が高くなった。


最近のその出来事が、とても嬉しくてたまらなかった。それで、心も身も元気になり自信が溢れた。良いことに喜ぶのはいいが、有頂天になるのはだめだと、自ら注意をしていたところだった。小さな成功に軽挙妄動しないようにとしている。それで、その出来事は私にとって幸運で大きな喜びだったので、その日から、毎日が自慢の日々だった。


昨年、私一人の出版社で出版した本が、韓国の文化観光部の2018年の教養図書に選定された。今年の春に応募して、少しだけ希望を持ちながらも、全国の沢山の出版社が集まって競争するのだから、選ばれなくても当然のことだと思った。その上、応募経験もない小さな版の社だし、やっと二冊番目の本を出しだけの出版社の立場では、全国競争の戦場に出したこと自体が深慮ないことなのだ。なので、今回の応募は、経験するだけでも良いと思っていた。勇気を持って応募資料を出し、二ヶ月が経た。

今月に発表された今年の教養図書リストに、我が社の本のタイトルがあった。リストの下には、今後に準備が必要な書類などが書かれていた。その韓国語のお知らせの文章と添付されたものが、あまりにも理解しにくかったので何回も読んだ。確かに我が社の本も当選したのだ、と認識するまでに時間が掛った。私と主人の本、‘南洋の島に生きた、朝鮮人松本の回顧録’が選ばれたと分かった時、胸がわくわくして鎮静できなかった。国家からの支援事業は出版社には得るものが多い。支援金とその後の本の販売も良くなるだろう。


学生時代の受賞のときと同じ気持ちになった。資料から本が発刊されるまでの5年間、資料を探した主人より、編集から応募までのあれこれをした私の方が役に立ったと高慢になった。勿論、私だけの考えだが、そう思うと本に込めた愛情と苦労が世の中から認められたように思えた。 私一人の出版社がいよいよ認められ,終に自分も認められたと思ったら、とても嬉しかった.


文字と絵描きで、こどものいたずらみたいな編集遊びをしたのは小学校6年生からだ。6年生の春、新学年の新学期になると私はクラスの級長になった。どうしたらクラスにとって良い級長になるかより、偉い級長になりたかったので私の一日はやる気でいっぱいだった。ある日、私はクラスの新聞が作りたくなった。副級長と二人で作り始めたクラス新聞は、週一回の発行で、二人が別々な新聞を作るので、二の種類の新聞になった。新聞といっても、それぞれのスケッチブックに文字を書き込み絵を描いたりする。時によっては雑誌記事を貼ったりした。色ペンもなかったので、新聞の記事が目立つように出来るだけ色鉛筆を使用した。


そのクラス新聞は60名のクラスメイトに見せるだけの新聞だったが、私には編集の締め切りが決められた仕事のように責任感さえあった。しかし、それが6年生の末まで続いたわけではなかった。ある時からは二人ともに新聞作りが面白くなくなった。日曜日にも学校に行って一日を新聞作りに使うのも負担感があり、試験のときは邪魔に思えた。先のものと後のものであまりにも差がなく、いつも繰り返しのように感じられた。なにより、新聞を読むクラスのメンバーにも興味があるはずがなかった。いつのまにかクラス新聞は廃刊された。

私にまた、新聞作りと編集の仕事がきたのは、それから20年後のことだった。養護学校の教師になって赴任したら、私にその仕事が回ってきた。学校のお知らせの新聞は月一回、学校誌の発行は年一回で、学生を教える仕事以外の業務だった。以前の私の仕事の経験といえば、保険の募集と学習誌販売しかなかった。10年過ぎて入った大学でも、大学新聞社には足を運ぶことなどまったくなかった私に、そんな業務はとても無理だっと思えた。しかし、文句を言える立場ではなかった。


教師になったばかりのその年、全国の学校新聞と学校誌のコンテストがあった。そのコンテストに応募するものは昨年発行したものだった。私の業務としては年末になって学校の校誌を作ることになるが、そのコンテストがとても気になっていた教頭は私を呼んで言った。今回のコンテストの応募はあなたがしてみてと。全てが初心者である私には難しい試験のようなことだった。コンテストに必要な書類と応募の文章作りなどなど、昨年、その業務をした同僚の先生たちがいたが、今年は自分の仕事ではないと思っているのか、何も手伝ってくれなかった。初めての教師の仕事も慣れなかったし、学校業務も初心者である私には、その先生たちの冷たい態度に深く傷付き、とても寂しかった。


しかし、その応募は予想意外の結果になった。全国コンテストで二等になったのだ。学校の先生たちの中で、昨年、学校誌発行に関わった人は、その結果は自分の能力のお陰だと言った。コンテストの準備のときは知らん顔の人だったのに。コンテストの賞を受けるためにソウルに行く出張の機会は、教頭に与えられた。職場の一番下っ端だった私には、誰も苦い言葉をかけてくれなかった。心配しながら準備して良い結果を出しても生き甲斐など感じられなかった。

 

翌年も地方教育委員会と地方新聞社の主催のコンテストがあって、その年の冬休み前に出版した学校誌を応募したら入賞した。学校全体が喜んで私に<ご苦労さまです>と祝福の声をかけてくれると思ったが、そんなことは全然なかった。その受賞をよろこんでいるのは自分ひとりであるという気ががした。その冷たい雰囲気が、また寂しかった。それを受け容れようと考えているうちに、実はそれが養護学校の特別な雰囲気によるものであるとも思われた。仕事の性格上、自分のこと意外に気を掛ける力がないくらい、先生たちが毎日、疲れすぎるからだと思った。しkし、私は他人から褒められることにとても飢えていた。それがないと自分の長所がどこにあるのか分からなくなり、自分の短所しか認識できない日々になった。30代の私はそのころ、他人の判断が気になる心弱い人間だった。自分が何をしてもそのことからの意味を発見しようとしたが、そんな考え方が逆に、自分の心に傷を負わすなんて知らなかった。一人ぼっちだった。


そのことも、もはや20年前のことだが、昨日のことのように覚えている。今回の図書選定に選ばれたことと繋がっていると思ったら、辛い経験だけではなかったのだ。むしろ、文章を書く、編集をする、それで形になるまでの一連の作業に私の能力があるのではないかと思えてくる。文字が好きな私に合う仕事ではないかと思える。

しかし、業務の一つで見る限り楽しくなかった。他人の認定を求めている間はもっと楽しくなかった。私がしたくてする、私が楽しくてやるんだと思えなかった30代の私は、本作りの楽しさより私を褒める人だけを探したのだ。褒められなくて、私に能力と才能が恵まれないことを悔しかった。もっと偉い能力が欲しかったのに、それを生まれ持ってこなかった自分が嫌だった。そんな時から20年が経た。


55歳になった今も、人からの褒めることが大好きな私の本音は変わらない。それで、今回の選定の自慢の話を彼方此方にするのだ。変わりにくい生まれつきの性格かな。今も選定のことを知らない人に自慢話したいと思っている私に、村上春樹の言葉がささやいた。自慢話、それだけしたら十分だよ、自信感と高慢は薄い壁の差しかない、本当の能力の開発は今からだよと。才能になるかどうかはもっと先のことだから、今からは3番目の本に心を込めてね、と。