字夢のノート(공책)/日本語の勉強屋

日本語と共に成長する/3년간의 일본어작문연습( 22회)

자몽미소 2018. 6. 26. 15:13


日本語と共に成長する


二週間後には日本語能力試験がある。そのために試験準備用の本を買ったが、机においたまま開くことなく試験日に迫られいる。単語と文法ばかりの試験用本は開けたとたん嫌になる。しかし、日本語の試験準備をしないわけではない。毎日のように私の目と耳には日本語が入ってくる。日本語の本を読んだり、NHK放送を見たり、日本語の学習ならユーチューブでも沢山の映像が見られる。特に外国語塾に通わなくても、個人で十分に外国語を習える時代になったと思う。

最近はユーチューブで深夜ラジオ放送を発見して、短編小説の朗読を聴いて楽しんでいる。大体の内容だけを聞いて理解する語学レベルなのだが、その内容を夜の散歩時間に主人に聞かせると、とても喜ぶので毎日、聴くことにしている。私にとって日本語は欠かせない一日の楽しみになっているのだ。

日本語を習おうとしたのは大学院に入学するときに、英語以外の第二外国語が必要だったからだ。 初級段階では、覚えても忘れてしまう単語ばかりの日本語は嫌な授業だった。結局、大学院の卒業まで日本語は何も役に立たないし、必要もなかった。大学院の論文を書くときにも必要だったのに、初級者である私には日本語の文献などを探す方法さえ見つからなかった。私の日本語が下手なせいだった。

2003年、私の初めての日本旅行が実現した。何年間か、日本語の学習をやめていたのに、日本に着いたら日本の人々とぺらぺらと話しがしたかった。しかし、当然、私の習った単語では簡単な会話さえできなかった。日本語塾では聞えたはずの簡単な表現も聞き分けられず、口も開けなかった。目だけが初めての日本を楽しんでいた。しかし、薬屋で買ったお土産は、帰国してみたら間違いに気ついた。中身を買わずうつわだけを買ったので使えなかった。言葉が通じないのは馬鹿になることだった。

習っても忘れてしまう日本語だが、私は初級者向けの日本語教本をずっと持っていた。日本語は日本の旅行にも必要だし、いつかは日本の小説家の村上春樹さんに手紙を書くという夢も持っていた。なんとしても、日本語教本を捨てる気にはなれなかった。捨てられない本当の理由は、勉強してもすぐ忘れてしまう私の頭に腹が立ったからだ。本を捨てれば私の頭に微かにあるはずの日本語が力を抜き、外に流れてしまうかもしれないと心配した。

主人と日本の八王子市に住むことになったのは2006年。私はまた、初級の日本語教本を開けた。日本語との縁はそれからだと思う。2006年の一年間の生活で日本人の友達ができ、日本は友達が住む土地になり、主人の仕事で日本には韓国のソウルより頻繁に行くことになった。それに加えて、主人の仕事の手伝いで日本語録音を韓国語に訳すことになり、日本語が私から離れない状態になった。時々、夢ではぺらぺらの日本語が出てきた。現実の私の口からは出ない日本語が、夢の声では日本人らしく話している夢。そんな日、私は嬉しくてたまらなかった。

  私の歳が増えると、 日本語の単語も同じく増えた。少しずつ、日本語の色々な表現も知りたくなった。文学的な文章も良かったが、日本社会を説明する本も面白かった。覚えている日本語が増えてから、日本に対して関心も深くなった。本と新聞を読むことで、以前は知らなかったことも見えるようになった。

ある日、知り合いからお願いがあった。出版社の編集者だった。彼女が話すには、出版のため、専門研究者が韓国語で翻訳したのだが、私がそれをもっと普通の韓国語の文章になるように直してくれないか、ということだった。日本の本を翻訳したのは日本語学科の大学教授だった。でも、読者のためには読みやすい韓国語の文章づくりがなお、必要だという。その仕事をしてみたら、文章直しは私の性格に会うという気がした。アルバイトのお金を稼ぐのも楽しかった。私の文章校閲と校正が出版社の人の気に入られたのか、別の本も頼まれた。二番目の本では前よりさらにお金を貰った。私が翻訳するように一つ一つの文章に力を入れた。それだからなのか、時間とお金を計算してみたら、私の時間単位の報酬はとても安かった。コンビニで働く方が増しなくらいだった。三番目の本もお願いと言われたが私から断った。主人の本の編集に時間が足りなかったからだ。私にはとても良い経験だった。出版社の人は、私が日本語と韓国語の両方を知っているので出版業系では珍しい能力者だと褒めてくれた。空まで飛ぶような気持ちになった。

主人の知り合いの在日韓国人がいる。彼は70年代に韓国で政治犯になってしまい、19年間、監獄にいた人。出獄後は韓国ではなく日本に呼ばれて大学で勤めながら人権運動をした。その先生から自分の本である‘獄中19年’という本を貰ったのは、私が日本に住んでいた5年前のことだ。岩波新書で出版されたその本は日本のいた時に読んだ。読んてみるとその内容を私一人が知っているのはもったいないと思った。韓国の民主化運動、国家暴力と人権など、本の内容がとても素晴らしかったので著者の先生に承諾を貰って、私が韓国語で翻訳したものを少しずつ私の個人ブログに乗せた。

20年前にその本は韓国語に翻訳されていたが、著者はその翻訳本と出版社が気に入らなかったそうだ。今は絶版なので新しく翻訳したいと、先生は言った。私がその本を翻訳して私のブログに載せたら、それを読んだ人からコメントが届いた。それを先生に伝えた。先生は私の翻訳が終わったら、新しい本とし出版しようと言った。私は翻訳者として名前を知られるいい機会になる、と期待しながらわくわくした。私の日本語はまだまだだったが、一つの単語を辞典を確認しながら翻訳をした。夜になると帰宅した主人が私の翻訳した文章を読んで、また、なおしてくれた。その小さい本は翻訳に1年が必要だった。

それを伝えたら著者の先生が私の翻訳を読みたいので見せて欲しいと言った。翻訳全部を先生に渡したのが4年前の夏だった。その本は今年の春に出版された。しかし、その本の表紙には著者の名前だけが出ていた。当初の話の通り、翻訳者としての私の名前はどこにもない。前書きには私の名前があったけど、その本を手伝った人々の中のひとりとしで挙げられていた。

その本に抱いた私の希望が水の泡のように消えた。大学の先生や有名な専門翻訳家だったら出版社もその名声に注意したはずだ。私はただの主婦なので出版社も先生も私の翻訳を勝手に使ったのだと思ったら腹が立った。この歳になっても取りに足りない人間になのかと思って寂しかった。私に社会的な地位がないので私の名前を軽く扱ったのだ。私の労働に何の費用も払わなくいいのか。そう思ったら悔しかった。彼から出版された本一冊を貰った。主人と私の名前が書いていた贈呈本だった。本の中を見たくないので、そのまま本棚に差し込んだ。私が軽く扱ったという思いが消えないからだ。

でも、思いを直してみたら、出版しようという彼の声がなかったら、私はその難しい本の翻訳を一年間もかけてやり遂げることができただろうか。私の性格から、きっと中途半端になったに違いない。しかし、翻訳をしたので、私の日本語の単語が増えて日本語の使う範囲も広くなった。それは私が翻訳者の名前を得るより、私にとって本当の役にだったのだ。

その本の翻訳経験から、私は日本語の本を以前よりもっと買って、もっと読むようになった。2年前からは日本語の作文もしたくなった。こんな楽しい時間を過ごしながら、私の中の日本語が立派に成長している。幼いときの私は韓国の民族主義教育に染まっていたことも、日本の歴史や社会の本を読みながら分かってきた。今の私は、国家主義、民族主義から離れ、世界の人間として世界史と社会を見ようとしている。日本語の勉強から私は韓国だけの範囲を超えて、世界を理解する力を得るようになったと思う。

それで、もっと日本語の勉強家になりたくて留学を準備していて、7月1日には日本語能力試験を受けることにしている。日本の留学を目指す私の夢はぐんぐんと伸びている。成長している夢は明るくて力があるので、年を取ってきた私を元気に支えている。