字夢のノート(공책)/日本語の勉強屋

3年間の作文練習(24)-小さくて小さな個人の歴史

자몽미소 2018. 8. 28. 13:12


小さくて小さな個人の歴史(수정후)

 

この夏、親戚の叔母さんが亡くなった。私の実家から歩いて10分もかからない所に住んでいて、両親とも仲良くしてきた。私が生まれてからずっと私の叔母さんだった一人の女性があの世に行ってしまった。葬式場に集まった親戚を見たら、一家の年取った人の中に男性は私のお父さんとお父さんの10歳下の従弟の一人しかいなかった。亡くなった叔母さんの旦那様は病院に入院していて、移動ができなくて葬式にも来なかったからだ。その叔父さんも病気のせいですぐ亡くなるかもと、集まった人々に言われた。

いつの間にか、私の両親の兄弟と従弟たちの死が相次いでいる。歳を取ってそういう歳になったとしても、葬式に参加するのは嫌な気持ちだ。あとは私の両親の順番かと思ってしまう。最近は私の周りの人々の葬式に参加するのが頻繁になった。生きる中で死があって、死は生きることの延長に思えるが、知り合いの死はやはり寂しくなる。 また、長い間、顔を合わせてきた人が今からは生きていない事実を受け容れたくない。知り合いだからとか親戚だからとかではなく、どんな死にも慣れられないのだ。

生き物のとしての人間の生命は平均80年、長く生存しても100年。その間に人々はどんな人生を送っていくのか。その間、世界はその人になんの意味があったのか。自分の人生に満足なんて出来るものか、と考えながら葬式に参加していた。歴史に残るくらい偉い人ではない普通の人間だからこそ、その死に寂しさをもっと感じた。生まれて、成長して、結婚して、子供に恵まれて、子供が育ち、その生活のために金を稼ぐ、苦しみを味わう、病気とか苦難を超えたら、老人になり、そうしたら死ぬ。普通の人間の行き道は生と死の間にあるだけだ。生まれた時は知っていても、死ぬ時を知らずに過ごしているだけの道。 私もその間にいる。

昨年の秋に私の出版社で出版した本の主人公は、今から100年前、韓国の北の地方で生まれた。1915年に朝鮮の人として出生したが、2003年に亡くなった時は太平洋の小さな島でアメリカ人だった。その人が青春期を送ったとき、朝鮮は日本の植民地だった。彼は日本の貿易会社の社員としてサイパン島の北部のとても小さな島に転勤させられ、そこで島人と日本人、沖縄の人々と暮らした。戦争が終わったとき、彼はまだ若かった。島人と結婚した彼はその島に残された。

彼の人生は、まだまだ苦しみが続いた。9人の子供に恵まれたがアメリカの地になったその島で、子供たちは英語で教育をうけてアメリカ人として成長した。私達が日本植民地時代の朝鮮人の人生を調査しにその島を訪ねたとき、彼はもはや10年前亡くなっていて、彼が書いた回顧録だけが私たちの手に届いた。調べたら彼の長男と末子の娘とに会えてインタビューをしたが、戦前のお父さんについては知っていることがあまりなかった。彼らは戦争が終わってから生まれた子供だった。生まれる前の戦争の話は、歴史本の昔話で知っていた。

日本植民地の島で青春を過ごした彼は、終戦後には島の新しい環境で生き延びることで精一杯だったらしい。戦争の跡地であったテニアン島を開墾しながら生きていた彼に、子供との対話は難しかった。彼は日本語が堪能だが、子供は日本語ができなくて、韓国語もできなかった。さらに、9人の子供と夫婦、一人のお爺さんを合わせた家族の間には色んな悩みがあったそうだ。彼の書いた回顧録にはその心の模様がよく書かれていたが、それは韓国語と日本語で書いたもの。自分の子供には円滑に伝えるのは難しかったことが分かってきた。

出版した本をテニアン島に住んでいる彼の家族に送った。その家族にお父さんの本を読めないけれど、あと、英語で翻訳する機会があったらそれをお待ちしており、それを期待しようと書いた手紙を送ったら、本を受けた娘からすぐ返事が届いた。

彼女は自分のお父さんの回顧録が出版された事に嬉しいながらも今もそれを読めないことにごめんなさいと書いた。また、幼い頃はお父さんが理解できなかった事が多かったが、今更、思ったら、晩年のお父さんが毎日お酒飲みばかりした事が故郷に帰られない寂しさだっと理解ようになったとも書いた。彼の故郷は北朝鮮だから今の政治の環境では彼も彼の家族も往けないところになった。

100年前に韓国で生まれた彼は、朝鮮という国から日本、そしてアメリカの国民になったのだ。大きな環境の変化で身を気をつけながら生き延びた。それでも死は訪ね、彼は晩年にお酒を飲みながら自分の人生をノートに一文字づつ書いておいた。その島で彼の書いて文字と文章を読める人はなかったのに、彼は自分の人生の思い出を必死に書いた。そのノートが私達に発見されるまで、彼が死んだあとも10年以上かかることとか、それがあとに本になるかとか彼はぜんぜん思わなかっただろう。彼はただ、なにか、自分の歴史を誰かに伝えたい気持ちだけで書いたと思えた。まさか、そのノートは自分が自分に伝えておくの自分史だった。

本について彼の娘の感想を読みながら、私もはっと気づいた。私も彼女と同じに私の両親の歴史、お爺さんとお祖母さんの人生をあまり知らないのだ。所どころ聞いた事があっても、心からの関心を持たなかった。なぜか。それは自分中心の考えしかしないせいだ。生まれてみたら、お祖母さんは歳を取ったお祖母さんだった。両親もそうだった。私の目にはお祖母さんは生まれてからお祖母さんになった人に見えてその前の時間については想像もしたくない癖があった。世の中は私の中心に回ってほしいいと思った。でも、彼らの皆が赤ちゃんのときがあって、成長して、結婚して、偶然に私の両親になったのだ。祖母と祖父も赤ちゃんから人生が始まったわけだ。

親戚の叔母さんの葬式でお父さんを会って久しぶりにお父さんの昔話を聞かせてもらった。お父さんの戦争体験は日本でもあって、疎開した事も覚えていた。幼いお父さんは 友たちと一緒に覚えた歌を聞かせてくれた。お父さんの口からはこんな日本語が出てきた。”殺せ、殺せ、みんな殺せ“。39年の生まれのお父さんは6歳に終戦を迎え、韓国の故郷に帰る前までは日本の大阪に住んでいたから、大阪の町で覚えた文句だろう。お父さんはその言葉が何を意味するかを分からないうちにそれを覚えたと思えた。

私の両親もその上のお爺さんとお祖母さんも歴史の一人なのに、それを大事にしてくれなかった。学校教育受けられなかった彼らが自分史を書いておく思いも実力もなかったとしても、教育を受けた私自身も彼らの人生に関心を待ったないせいだ。それで、100年前の1914年に生まれて80歳で亡くなった私のおばあさんの話を、私はあまりしっていないのだ。お祖母さんも植民地の百姓で生まれ、青春時代にお金を稼ぐため日本に行って、其処で結婚、一家を立てて、幸せな時期を少し味わい間に戦争が起きて、辛い体験をして、終戦と供に故郷へ帰り、また、韓国の戦争で亭主を失って、苦しみの人生を送った。だが、そんなお祖母さんの個人史は今になったら私のお父さんしか記憶する人がいなくなった。私はもっと小さい話しか聴いていなかった。

 遅かったが、今からも聞いてみよう、私は今年に80歳のお父さんの話を歴史の時間を辿りながら聞いて見た。私の両親ではなく一人の人間、生と死の間に生きている一人の人間の話で聞いたら、その中には韓国と日本の80年が流れている気がした。遠いところの記憶を呼ぶお父さんの姿から小さな暦史が立ててきた。