字夢のノート(공책)/日本語の勉強屋

代わりの満足から抜けること・3년간의 일본어작문연습( 21회)

자몽미소 2018. 5. 28. 21:14

수정본( 2018년 5월 28일)

わりの満足から抜けること

 

息子彼女がアメリカにったのはヶ月の3月末だ.学校教員であるが国研修プログラムでアメリカにって現地の英語を習い、みには一時的帰国するそして9にはスウェデンにって、そちらの学校で教員として現場研修をする。一年間をとる国研修なのだ来年息子結婚する予定いよいよ青春時間耀

息子今年三月から学校正式教員になった間付った二人今年来年結婚計二人両親報告した準備のため結婚探していち予約するため、結婚取りをめることになった。来年からは我が家は私たち夫婦きりの生活になる。

息子は教師の仕事に一生懸命で、真面目な先生でいるようだ。暇な時は学校の事を話してくれるので、私と主人は息子の学校の話を聴くのが楽しい。最近の学校の様子は私の時代とは大変に違って難しくなり、相手である子供との意志の疎通がとても重要になったようだ。でも、息子の前向きな働きぶりは、好感が持てる。学校の中では難しい事件もあるが、それを解決する色々なエピソードからは最近の社会の変化も感じられる。

息子と息子の彼女、二人は今、二十八歳の同じ歳。今からは二人の時代だね、と思いながら私の心には喜びが広がる。職場で熱心な二人の姿からも安心感を貰うのだ。まるで私自身の仕事に満足するような気持ちになる。それは代理満足と言えるだろう。二人の青春時間をのぞきながら、それで私のことのように思うのは確かに代わりの満足だ。自分に満足することではなく、他人と自分を同じ様に思いながら満足することだから。

 

振り返れば、私にも教員の仕事に満足する機会はあった。でも、私は教員の仕事を少ししか経験しなかった。教員だけではなく他の仕事も自分の人生に深い意味を残さなかった。10年以上続けた仕事がない。様々な仕事を経験はしたが、生き甲斐を感じながら働いたこともないし、役に立つと思われることもなかった。

高校を卒業して入学した大学は、卒業と同時に中学・高校の国語の先生になるのが義務だった。高校の良い成績がなくては入学できない厳しい条件だったが、奨学生で合格した。父はとっても喜んだ。入学にかかるお金が何も必要ないからだ。ただ、700円くらい気持ちだけのお金を払った。その時の私は、都会に憧れてソウルの大学に行きたかったが、結局、故郷の島から一足も出なかった。少し悔しい気持ちで、半年間、大学に通った。

しかし、夏休みに、偶然、会った人との関係で私の人生は沢山道を曲がってしまった。3年後にはシングルマザーになった。娘と生きていくための仕事を探したがお金を稼ぐことは出来ない、25歳で職場を代わり、結婚をした。でも、それもまた、うまくいかなかった。その間、韓国の民主化が進み、政府の決定で大学に再入学が出来るようになったのは私にとって大きな幸運だった。30歳で大学に入り、同級生より10年遅い卒業だった。しかし、国家と法律の変化で、私の専攻の国語は生かせなかった。国語教員になるのは厳しくなった。住んでいる済州島では、私の専攻科目の教員試験さえなくなった。

その上、私は大学の卒業後、息子の父と離婚してしまい、息子と生きていくお金が必要になった。一日一日が切実で、いくつかの仕事場を経て、いよいよ養護学校の教員になった。その特別な仕事の資格証を取るため、また大学院に入らなければならなかった。息子を育て、塾に通わせ、私の大学院の費用、生活費が何時までも大きな悩みだった。その学校で八年間、働きながら息子と二人で生活をした。このとき、私にとって教員の仕事は、教育よりお金を稼ぐの手段だった。40歳のとき再婚して、私は未練もなく仕事を辞めた。

息子と彼女の仕事ぶりを見ながら私は満足する。私には過ぎ去ってしまった青春を、彼らが生き生きと過ごしていることにも満足する。私は生き甲斐を感じなかったが、彼らにはそれがあるように見える。それで代理満足だ。だが、息子であっても他人で、私ではない。息子の人生の生き甲斐は、私のモノではない。私は私に満足するべきだ。

 

二年前から、私は日本の留学を目指してきた。でも、よく考えれば、それが実現できるか不安になる。前向きな時は、主人が定年する2年後になったら何とかできるよ、と内心から力が出る。でも、風が吹いたらすぐ消える蝋燭みたいな心もちの私は、留学はためだよ、とよく弱気になる。現実に目をつぶるのが気になるのだ。老後の長い期間の生活費とか病院費とかシルバーライフについて、あまり準備をしていない私が、青年と同じように留学の夢だけを持つのは、バカに思えるからだ。老人破産と言う単語があるが、その内容を読んでみたら、それは私のように将来のことを準備しない人間に迫る可能性が高い。年金があったとしても韓国の政府をずっと信じられるか。心配性である私は現実的な人間になろうと思った。それは留学の夢を放棄することだった。今の状態に満足しようと自分に言い聞かせた。息子が結婚をして孫ができたら孫の世話をしながら生きていく私の老後を想像してみた。それでも良い老後だ。でも、わたしの胸のなかで咲いていた花が、いつの間にか首を折った。

息子でもない、孫でもない、主人でもない、私自身のことで自己満足できる人生がほしい。そんな思いは心の底から消えなかった。20代に持った私の夢は何だろう。その時、欲しかったことはなんだろう。今までで悔しいことは何だろう。重苦しい後悔は、きっと墓に入る前でも無念だろう。その時に悔いるより、今、したいことはするべきではないか。今まで生きてきて今が一番老けたが、今から生きることを思ったら今が若いときなのだ。だから、したいことは、した方がいい。

そこで、留学の方法を変えることにした。2年間とか3年間とかの長い期間が必要な留学は、私たちの生活には無理かもしれない。なので、一年の間一時的に通う通信大学の方法をおもっている。日本の友達にその方法を教えてもらった。 留学のためには日本語能力試験一級が必要なので申し込みをしておいた。今年の7月には2018年の日本語能力試験1回目がある。1回で合格するとは思えないので、2回目の12月の試験も受けるかもしれない。合格までに何回も試験を受けると覚悟するべきだ。いよいよ、私の夢に向けて現実的な準備が始まった




2018年5月25日作文(1회)


わりの満足から抜けること

 

息子彼女がアメリカにったのはヶ月の3月末だ。学校教員であるが国研修プログラムでアメリカにって現地の英語を習い、みには一時的帰国するそして9には別の処であるスウェデンにってそちらの学校で教員として現場研修をする。一年間国研修なのだ来年息子結婚する予定でいよいよ青春時間耀

息子今年三月から学校正式教員になったった二人今年来年結婚計二人両親報告した準備のため結婚探していち予約するうち結婚日までめることになった。来年からは我が家は私たち夫婦きりの生活になる。

それとは別にして、息子は教師の仕事に精一杯で、真面目な先生の役割をしている。暇の時は学校の事を話せてくれるので私と主人は息子の学校の話を聴くのが楽しい。最近の学校の模様は私の時代とは特に違って難しくなり、相手である子供との疎通がとても重要になったようだ。でも、息子の前向きの仕事柄は見た目に良い、学校の中には難しい事件もあるがそれを解決する色んなエピソドからは最近の社会の変化も感じられる。

息子と息子の彼女、二人は今、二十八歳の同じ歳。今からは二人の時代だねと思いながら私の心には喜びが広げる。職場で熱心な二人の姿からも安心感を貰うのだ。まさか、私自身の仕事に満足するような気持ちになる。それは代理満足と言えるだろう。二人の青春時間をのぞみながらそれが私のことのように思うのは確かに代わりの満足だ。自分に満足することではなく、他人と自分を同じ様に思いながら満足することだから。

 

振り返れば、教員仕事に満足する機会はあった。でも、私は教員の仕事を少ししか経験しなかった。教員だけじゃなく別の仕事も自分の人生に意味深く入れなかった。10年以上続けていた仕事がない。様々な仕事の経験はしたけど、生き甲斐を感じながらしたこともないし、役に立つと思われる事も無かった。

高校を卒業して入学した大学は卒業と同時に中高校の国語先生になるのが義務だった。高校の良い成績じゃなくては入学できない厳しい条件だが奨学生で合格した。父はとっても喜び、入学にかかるお金が何も必要ないからだ。ただ、700円くらいの気持ちだけのお金を払った。その時の私は、都会が憧れでソウルの大学に行きたかったが故郷の島から一足も出なかった。少しの悔しい気持ちで半年を学校に通った。

したが、夏の休みで偶然に会った人との関係で私の人生は沢山道を曲がってしまった。3年後にはシングルマジャーになった。娘と生きていくための仕事を探したがお金を稼ぐことは出来ない、25歳で職場代わりの結婚をした。でも、それもまた、うまく進まなかった。その間、韓国の民主化が進み、政府の決定で大学に再入学が出来るようになったのを私にとって大きな幸運だった。30歳に大学に入り、同士よりは10年が遅く卒業だった。しかし、国家法律の変化で私の専攻の国語は生かさられなかった。国語教員になるのは厳しくなった。住んでいる済州島では私の専攻科目の教師試験さえなくなった。

その上、私は大学の卒業をしながら息子の父と離婚してしまい、息子と生きていくお金が必要になった。一日が切迫な時、何個の仕事場を過ぎって、いよいよ養護学校の教員になった。その特別な仕事の資格証を取るため、また大学院に入らなきゃならなかった。息子を育ち、塾に通わせ、私の大学院の費用、生活費が何時までも大きな悩みだった。その学校で八年間を働きながら息子との二人生活をした。このとき、私に教員の仕事は教育よりお金稼ぐの手段だった。40歳のとき、再婚しながら私は未練もなく仕事を辞めた。

息子と彼女の仕事ぶりを見ながら私は満足する。私には過ぎってしまった青春を彼らが生き生き過ぎていることも満足する。私には生き甲斐を感じなかったが彼らにはあるように見える、それで代理満足だ。だが、息子としても他人で、私ではない。息子の人生のが生き甲斐が私のモノではない。私は私に満足するべきだ。

 

二年前から、私は日本の留学を目指した。でも、よく考えば、それが出来るか疑心になる。前向きの時は主人が定年する2年後になったら何とかできるよ、と内心から力が出る。でも、風が吹いたらすぐ消える蝋燭みたいな心もちの私は留学はためだよ、とよく聞かせる。現実に目を閉じるのが気になるのだ。老後の長い期間の生活費とか病院費とかシルバーライフについてあまり準備をしていない私が、青春の人と同じに留学の夢だけを持つのがパーカだっと思われるからだ。老人破産と言う単語があるがその内容を読んでみたら、それは私のように将来のことを準備しない人間に迫る可能性が高い。年金があったとしても韓国の政府をずっと信じられるか。心配の人間である私は現実的な人間になろうと思った。それは留学の夢を放棄することだった。今の状態に満足しようと聞かせた。息子が結婚をして孫ができたら孫の世話をしながら生きていく私の老後を想像してみた。それでも良い老後だ。でも、わたしの胸のなかで咲いていた花がいつの間にか首を折った。

息子でもない、孫でもない、主人でもない、私自身のことで自己満足の人生がほしい。そんな思いは心の底から消えなかった。20代に持った私の夢は何だろう。その時、欲しかったことはなんだろう。今まで悔しいことは何だろう。重苦しいことは墓に入る前にも残念だろう。その時も悔いより今したいことはするべきじゃないか。今まで生きて一番老けたが、今から生きることを思ったら今が若いときなのだ。それで欲しい事はするのがよい。

それで、留学の方法を変わるようにした。2年間とか3年間とかの長い期間を必要な留学は私たちの生活には無理かもしれない。なので、一年の一定的な期間だけ日本で住みながら学校に通う方法があった。日本の友達にその方法を教えてもらった。、 留学のためには日本語能力試験一級が必要なので申し込みをしておいた。今年の7月は2018年の日本語能力試験1回目がある。一回で合格するわけがないのでまた、二回めの12月の試験も受けるかもしれない。合格までに何回の試験をするべきだ。いよいよ、私の夢は現実的な準備を始まった。