字夢のノート(공책)/日本語の勉強屋

昔の村で泣いている少年(10月の作文)/3년간의 일본어작문연습(26회)

자몽미소 2018. 11. 27. 17:12

昔の村で泣いている少年

 

先週主人仕事に同行して韓国の本土都市、 益山(イクサン)ってきた。そこは新宗である仏教聖地だと呼ばれている。その教団である光大 益山(イクサン)に位置している。主人はそのわれたシンポジウムにするため、わたしにも共に行くよう誘ってきた。 私が行きたい場所に行ってもいいと誘った。一回も訪問したことがなかったその場所には、今は亡くなったお祖母さんとお爺さんの昔の家があった。それで、一回も会ったことがなかったお爺さんのように、その家は昔の、昔話の家だった。なので、その家は黒くて深い夜の夢の道にあるようなものだった。今はいなくなった人たちの家だし、探してみようとも思わなかった。その家と私の間に何の関係があるのか、考えもしなかった。

主人が関わるシンポジウムのタイトルは、東北アジアの戦争遺跡と平和教育だった。日本の東京、奄美大島からも研究者が来て活発な議論とコメントが行われた。辛かった戦争の記憶をどうしたら後の世代に伝えられるか、戦争を記憶させる場所と物は平和にどういう役割が果たせるか、両国の研究者の話が戦争の遺跡を平和教育に活用する方法に纏められた。彼たちの話を聴きながら、私の家族の歴史に韓国戦争があったこと、特に済州島の4.3事件のせいで済州島からこのイクサンというところに逃げたことが連結していると思った。戦争の危ないところから安全なところに逃げる避難、私のお爺さんとお祖母さんは家族を守るようにこの地に身を寄せたのだ。昔、昔、その話はもはや70年の前のことだ。

1910年から朝鮮は日本帝国の植民地になった。その時、朝鮮の南の島である済州島の田舎で生まれた私のお爺さんは、少年のころから自分の夢を日本に向けた。彼が20(歳)代になると、済州島には日本の大阪に通う船が現れた。その船は島を回りながら日本で働く人々を集めた。青年のお爺さんは当たり前のようにその船に乗った。少し後には、両親の勧めで村の女性と結婚もした。私のお祖母さんになるその女性も結婚するまで大阪の紡績工場で働いていた。大阪に住んでいた二人は一時的に故郷に戻って結婚式を上げ、すぐ大阪に行って新婚生活を始めた。その後、お爺さんは弟を大阪に呼んだ。お祖母さんは先ず日本に着ていた親戚の中で幸せな新婚を送っていた。ドンドン、済州島から人々が集まってお爺さんとお祖母さんの周辺は済州島の村のように変わってきた。

私のお父さんの兄弟も3男1女になり、日本での祖父母の結婚生活は豊かだった。お爺さんは腕がいい家具づくりの職人だった。お父さんの姉である私の叔母さんの話によると、お祖母さんは日本の着物も注文して作らせて持っていたそうだ。日本にお金を稼ぐために移民した祖父母は夢のような暮らしをしていた。それが続けられたら、私のお父さんと兄弟は幸せな家族として日本の地で生きたはずだ。

しかし、そうではなかった。太平洋戦争が起きて何年か後、日本は敗戦した。なんの理由があったのか、今の私は知らないが、敗戦後、お爺さんは急に帰国することを決めた。彼は日本で稼いだお金を故郷の発展に使用しようと、決心した。お爺さんは船を借りた。そこには引越しの荷物と家族、工場の機械も載せられた。ふるさとに戻った彼は第二の夢である故郷発展のため、故郷の一角に新しい木材工場を作った。日本の家のように二階の建物も作り、工場のなかで木を切る機械が動きはじめたとき、お爺さんはまだまだ若かった。工場が突然火災に巻き込まれるまでは、自分の前に黒い運命が待っていることなど知るわけがなった。

工場が火災でなくなって失望したお爺さんは、今度は済州島の不思議な雰囲気が気になってきていた。後にそれは4.3事件と呼ばれる大きな内戦だ。その内戦で済州島の3万人以上が殺されるか、行方不明になった。気が弱かったお爺さんはそのまま島に残っていたら安全ではないと判断した。また、家族連れで引越し、船を借りて今度は韓国の本土の地に行った。そこでまた家を買って、土地も買った。今からは安全だろうと彼は思った。

しかし、それもうまくいかなかった。本土に引越しをした3年後、朝鮮戦争が起こった。お爺さんは北朝鮮軍につかまり、以後、行方不明になった。4人の子供は毎日お父さんを待ちながらお母さんと暮らした。イクサンは私の祖父母が済州島から避難したところであり、幼いお父さんが10年くらい住んでいたところだった。

私はお父さんから聞いた祖父母の家の昔の番地をグーグルの画面で探してみた。新しく土地の番号が付けられたその画面をお父さんに見せた。お父さんは通った学校、田んぼの位置、住んだ村の模様などをすらすら話した。

主人のシンポジウムを後にして私は一人でお父さんが住んだ村を訪ねた。村の老人会館に行って昔からこの地域に住んでいた人を探したところ、隣の家に住んでいた人に二人逢えた。お父さんの学校にも行ってみた。家と学校の間の距離は歩いて10分くらいだった。少し登り坂のその道を歩きながら少年のお父さんを想像した。

お父さんはよく話していた。中学校に行けなくて寂しかったと。隣の友だちは中学校の服を着て学校に通うのに、貧乏の自分は行けないから悲しさが悔しさに変わってしまったとも。成績なら進学に十分なのに家庭の経済のせいで行けなかった学校。

お父さんは、母親の生活力をいつも気にした。親父がいなくても母親に生活力があったら、子供に教育の機会を与えられるとずっと思ってきた。その考えには、自分のお母さんに対しての怒りが感じられる。だから、私が幼い頃からお父さんは私の進学の道を決めた。“教師になれ!”お父さんの強くて硬い意見に私は長い期間、負けながら、性格の違いに葛藤してきた。

お父さんの幼い頃の友だちと会って、少年時代のお父さんについて聞いた。学校の成績がよかったこと。病気で頭の髪が真白になって、顔にも白い点が出て障害状態だったことを聞いた。自分の体の皮膚病のことでいつもおびえる姿のお父さんが見える気がした。 友だちとお父さんは私の電話で顔を見ながら話した。少しだけの記憶しかないと言いながらも、二人の老人はすぐに子供の時代の話に落ちていた。たくさん周辺の子供と先生の名前が呼ばれて、その安否を聞いた。電話の同窓会になって話す内容が増えてきた。今になって遅いが、お父さんの住んだ村に来て良かったと思った。

シンポジウムを終えて家に戻り、両親に会った。午後の半日、お父さんの昔話を聞いた。幼い頃からの話には哀しさと怒りがあったが、私の耳には少年の泣き声に聞こえた。戦争後の貧乏なお母さんの下で自分の心を表現できず、希望もなく成長した少年。長男だから自分の義務ばかり背負った少年は、自分の前に座って自分の話を聞く人が自分の娘ではないように見えるようだ。私の話を聞いてくれ! 昔の時間に戻ったので自分の頭にあったもの、心に残ったもの全部を話したいと思ったのか、お父さんの熱心な声にはこんな話は二度と出来ないというような切迫感もあった。なぜかというと、幼いときのことは恥ずかしいので、話したくないこともあるらしい。

それで私も、私の前の老人をお父さんではなく一人の他人の歴史を聞くような心で聞いた。その方が、私とお父さんのお互いの長い間の葛藤に、解決の方法が見える感じがした。