この論文は韓国の映画の中で障碍者の自我意識と差別がどのように表せるのかを研究したものだ。映画に描写される世界は現実との類似性があることで私たちが生活している世界を反映する。映画の中で障碍者についてのの差別と否定的な見解、振舞を見た人々はそれを現実の世界だと思う傾向になる。また、それは障碍者の自我意識にも影響を与える。
自我意識は個人が自分自身について持っている価値観である。自我意識は自分を囲まれている環境との相互作用を通して作られる。こんな側面で韓国の映画の中で障碍者をどう描写されているかを見ることは韓国の者会全般が持っている障碍者についての考え方を見るようになる。同時に映画の中に登場するする障碍者の自我意識も覗くようになる。彼らの自我意識が否定的か肯定的かは韓国の社会の環境から受けて決められることだ。その中に映画の影響は大きいため、研究の必要がある。
人間が安全に生活ができるようになるためには地域社会の環境と住民の態度が重要な役割をする。ところが私の国の状況はまだまだで、社会できな与件も不十分である。その中、障碍者についての偏見や差別も消えない。結果中心主義の社会の雰囲気のなかで人間の尊厳性より生産性を重視する環境で障害者の我意識は不定的になるのだ。
それでこの研究の目的は
一、韓国映画に現れる障碍者の自我意識の特徴を調べて、社会との関係を考察すること。
二、映画のしゃかいの環境は障碍者の自我意識にどんな影響を及ぼすのか。
三、障害者の差別が社会の倫理的な問題とどう関連になるのかを分析する。
そのため、この研究は人間は自然の一部分であり、価値の生成者であることを前提する。
こんなことから韓国映画の障碍者の自我意識と差別をしらべる。
まず、1925年から1997年の間に韓国で上映された韓国の映画で主人公が障害者であるものを選んだ。そこでは主人公が持っている障害の特徴と上映された時期、映画の内容と話がいつのことか、その時の社会状況はどうだったかを調べた。
その調べの中から障碍者の自我意識と差別を分析する映画は五つを選んだ。主人公の意識が否定的作品みっつと肯定的作品二つだった。それで、障碍者の自我意識をの二つで分けて、その映画の主人公が持っている自我意識の内容を分析した。
映画の原作がいつ作られたか、そのため、その映画の社会状況はどうだったかを具体的に分析した。まず、肯定的自我意識を持ている主人公は神様への感謝、自己への愛情、明るい性格、障害を乗り越える意志が現す。しかし、否定的な自我意識をを持っている主人公は被害妄想、怒り、諦念、自己防御などの特徴が見えることを判明した。
それから自我意識を形成するようになる理由として映画の人物の中で行われる差別の模様を明かした。
この研究の五つの映画に表す障碍者の自我意識と差別の様相は下のようだ
一番目の映画のタイトルは <おはよう、神様>だ。肯定的な主人公で人たちとの交流が主な話だ。でも、この映画で障碍者の現実的人生が見えないし、監督が障碍者についての理解不足がみえるのでこれは障碍者は映画の道具で使われたもう一つの差別になってしまった。
二番目の映画のタイトルは<おせ岩>だ。視覚障碍者である少年が開眼になるまでの孤軍奮闘を描写した。この映画は開眼こそが正常であることを知らずうちに強要している。障碍者は異常、正常人は非障碍者だという固定観念が見えるのだ。
三番目の映画のタイトルは<西便制>だ。韓国の映画の歴史の中で最大の観客を集まったと言われる。この映画の主人公少女は障碍者ではなかったのに彼女のお父さんが娘をうたの名人に作るため、わざと娘を盲人に作ってしまう話だ。体の一部分が不変だったらまたの機能が発展するという俗説を信じたお父さんはとて暴力的存在だ。
四番目の映画は<低人が打ち上げたボール>だ。産業資本主義社会の障碍者家族のはなしだ。経済開発の1970年代の韓国でこの家族の孤立は進んでいく中、その家族に残ったのは死と悲惨だけだ。その映画は障碍者の差別が政治、経済政策と関係があることを見せる。
五番目の映画は<唖>。朝鮮時代の聴覚障碍者の女性が主人公で家族も社会も彼女の味方にならない状況がよくわかる。自己表現の出来ない彼女は悲劇的人生になる。
障害者の差別は社会の構造に従って現わすものだ。韓国は民主主義社会だといわれるがそれを障碍者に焦点を当たって照り付けたら民主主義の平等はみえない。昔から障碍者を乏しい人間と扱った歴史もあるし、今もそんな偏見は保っている。それが映画にも現す。映画の主人公の自我意識が否定的になることはこんな社会の歴史や文化、または人々の考えの習慣でつくられることを判明した。
韓国の映画の分析をして障碍者の自我意識と社会一般の障碍者への差別を知りたかったこの研究の結果は下のようになる。
ひとつ目は、韓国映画の障害者の自我意識は肯定的か否定的の類型で表せる。彼らが属している社会一般が持っている価値観、歴史、政治、経済的な社会の構造彼らの自我意識は大きな影響をうけるということ。
二番目は、映画の中に表れた不平等な社会構造は障碍者についての理解不足を起こす。また、偏見を固くしてしまうんだ。それは生きる現場から障碍者を疎外させる。また、その疎外が障碍者自身の権利主体としての喪失させて否定的な自我意識が生み出すようになる。
三番目は韓国映画に出てくる主人公の障碍者が持っている自我意識が肯定的か否定的かは関係なく差別的な社会構造は堅固だし変化しにくく見える。それは障碍者への一般の認識が平等社会を指向しているものの、実践的には平等社会に辿らなかった証拠になるものだ。