字夢のノート(공책)/日本語の勉強屋

二番目の修学計画書

자몽미소 2019. 7. 15. 09:33

修学計画書


                 金美廷

1.当たり前に気になって


 私が住んでいるところは韓国の済州島です。そこで生まれ育ちました。大学も済州島で卒業しており、韓国の本土に住んだり、海外に住んだりした経験は少ないです。ずっと、その島で生活をして住民として過ごしました。それで周辺のことに対しても当たり前という気持ちで50年以上を生きてきました。

 しかし、最近になってからはその当たり前のことに当たり前ではないという思いが出てきました。私に物心が付いたころの1970年代の済州島と今の住んでいる済州島は同じ土地なのにたくさんのことが変わってしまったことに気付きました。もちろん、その間の50年間は世の中を変化さえる時間です。幼い私が大人になって、大人だった人々は亡くなって、また、新しい生命が誕生して成長しています。これは当たり前のことです。さらに、私の成長していた間にも私の周辺の状況も変わり続きました。世界の経済、社会、政治などの動きで人々の周りの状況が変化さえることも当たり前のことです。私はこの当たり前の変化の様相が気になってしまいました。なぜ、こんなふうに変わってしまっただろうと思い始まったころから、変化の理由、変換されても人々が当たり前と受け入れ理由が知りたくなりました。その理由を分かったらそれを説明したかったです。それで私は大学院に入り、疑問を溶けたいと思いました。


2.慣れない目線

 50年の時間は一人の人生としてみたら長い期間です。それでも人類歴史の流れの目線で見たら50年は僅かな瞬間に過ぎないです。それで、私もこの島の変化の流れにあまり気づけられなくて当たり前の思いを持ってきたかも知れません。そのうち、この島の人々の暮らしに長い期間、伝統だと受け入れたことがある時期からは弊習に思われました。更にはいつの間にか伝統的な風習がなくなることになりました。無くならなかった場合は形だけを残って、中身は変換されたものがあります。また、中身はそのままで形が変化しており、受け入れる人々の価値観も変化させたものもあります。その例は沢山です。私の幼い頃に住んでいた村で見た結婚式や葬儀、正月とお盆の時のいろんなことが今は見えないことになり、僅かな形式だけが残ったものもあります。私は昔はそうだっだのにと懐かしい気持ちばかりで、その変化の流れと理由を説明できないです。ずっとその流れにいたのでよく知っていると思ったが、今の私には説明できる力がないとおもいます。

 こんな迷いの中、慣れないところで他所の人のように私の周りと住んでいるこの島のことを見たらどうか、思いつきました。


3.今の知っていることをその時も知っていたら

 今、私は幼い頃の私の故郷を思い出します。国民学校と呼ばれた小学校に入学したのが1971年です。あと、1980年になると高校生になって済州市の学校に通うため、その村を離れました。大学に入り、卒業した後は結婚したので私の故郷の村での生活はしなかったです。その分、村のことにはあまり気配りをしなかったです。当然なように村のいろんなこと、生活遺産物が姿を消えることにも目を向けなかったです。

  私の故郷の村は田舎だったのでその同じ時期の済州市とは違い点がありました。暮らしの全体に昔からの風習が残っていました。村には学校があり、薬屋がありました。一時間一回か二回はバースが往来しました。それは日本植民地時代からの変化で近代化の象徴でした。または精米所、澱粉工場のように近代化した機械を使っているところがありました。それでも昔からの丸くて大きな石を回りながら穀物を搗くところもありました。牛が畑打ちをしました。馬車も牛車もありました。電機や水道は1970年代の中盤になったから村に設備工事が行われ、その時までは昔ならではの生活様式が残ったままでした。海辺には井戸があり、それは日本時代に作られたもので、水道が人々の家まで普及させるまでその井戸の水が生活に欠かせなかったです。

 村を急に変化させた一番の理由を考えると政府の政策で新しい村作り運動が興ったからです。またの

理由を挙げると済州島が観光地として有名になったからです。70年代の末期になると変化のの勢がもっと強くなりました。島にお金が入ってきて経済の豊かさが確かになりました。経済の変化に連れて島全体に建設ムードが広げていきました。建物や道路の発展を歓迎する島の人々は昔からの村の文化遺産にはあまり気配りをしなかったです。新しいものを作るためには破壊もかまわないという価値観まで出てきました。少しずつですが、その経済発展と生活の便利性を楽しんでいるあいだ、人々の生き方も変わって長い期間持っていた物や文化は姿を変形するか消えました。それは私の記憶にはあった風景が今はとこでも見えないものになりました。いまさら、私はそれがはっきりあった時、記録したら良かったと後悔します。それをたくさんの写真で撮っておいたら良かったとおもいます。でも、それは今になってから浮かんでいる思いです。豊かな文化遺産に囲まれていたその時、私はただ、田舎の子供に過ぎなかったです。未来の自分の後悔など、全然知ることが不可能な子供だったです。

 

4.全部ではなくても

 ある人類学者の言葉にこんな文章を読んだ。

 ー私がしていることは考古学者が特定な地域で行っている事と同じだ。いわば、残っている遺物破片からすべて消えてしまったその地域の特徴を生かすことなのだ。でもそれは徒労に終わることを分かっている。

 破壊された後、何かをなくした後に前のことの意味を探すことに学者は徒労だと言います。分かったのにしているとも言います。私もそんな気持ちです。

 大学院に入学して失くした島と村の文化遺産や伝統のことを深く理解できるとは思いません。ある学者が何十年を研究しても完璧な説明は無理なことだと思います。でも、私は今回の日本での勉強機会を貰って、50年間の私の島と村の変化について理解できる方法を学びたいです。日本でも似ているところがあるかも知りたいです。私の思いと似てる研究者がいるかも調べたいです。

 その中、私の一番関心のあることは葬式のことです。ここにはたくさんの変化がありました。でも全然変わらないものも見えます。島の葬式の変化の流れに入れた島の人々の価値観がなんなのか、私の勉強の始まりをこれに置きます。


5.一歩から

 修学計画を書きながらわたしの自分への期待が大きすぎる気がします。足りない日本語で外国人として十分な勉強ができるか恐れます。今までの私は本が好きな人でしたが大学院生になろうと思ているいま、私の読書歴は薄いことだと思います。特に私の興味があるところを勉強するための専門的な読書が足りないとおもいます。さらに、日本語で読んだ本は少ないです。

 大学院で必要な理論や研究方法、研究道具、資料の調査、取材の方法など思っているのにそれをどうしたら適切なのかは分かっておりません。ただ、そんなことを大学院で熱心に学ぶべきだとは考えています。

 私の一歩はこんなふうに弱い点ばかりです。それでも、私が新しい目線を持つようにこ入学をお願い致します。





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