字夢のノート(공책)/日本語の勉強屋

日本語作文ー1(수정전).

자몽미소 2021. 1. 14. 10:15

年上の友達

 

私が新垣安子先生と会ったのは2005年の夏で沖縄にいった時でした。元々、先生と私の主人は研究者として会いました。2004年には先生夫妻は私の住んでいる島に訪問したことからその縁はむすばれました。先生夫妻は済州島の現代史に関心が深くて、その時は済州4.3祈念式に参加しました。2005年には私と主人が沖縄戦について勉強するために沖縄を訪問しました。その時、先生夫妻から沖縄戦の遺跡を案内していただきました。戦争遺跡巡りで日本の島、また韓国の島で起きた戦争について勉強になりました。さらにお互いの考えを話しながらお互いの世界観を発見する時間でした。私は研究者である二人に連られていって話を聞きながら二つの戦争が別々ではないことに気づきました。それから、私は沖縄の歴史や文化に興味ができました。

その時のから先生と私の付き合いが始まりました。下手な日本語だけど新垣先生に自分から手紙をかき、送ることになりました。先生の返事では沖縄戦以外にも沖縄の音楽や食べ物の話が沢山ありました。綺麗な文字の日本語だけど日本語初級者である私には読みにくい文章でした。でも日本からくる手紙を楽しみにお待ちしました。先生との付き合いで私は沖縄がもっと好きになりました。時には手紙だけなく小包を送ったり、貰ったりしました。先生がスマホが出来た3年前からはラインで写真やメールをしています。

それで先生と私は友達になり、16年の時間を過ぎました。先生は1946年、私は1964年生まれなので歳の差は18年ですが、私としては先生が尊敬している年上の友達です。先生には私がどんな人間だろうと思う時もありますが、先生としても私が友達だと信じています。それは16年の長い付き合いの時間から見ればわかることじゃないですか。

 

-2021.1.14.목.

 

방송대 특별수업에서 과제가 나왔다.

일본어 작문하기-(1) 인물 소개, (2) 건축물이나 이벤트 등에 관한 소개하기

 

오늘까지 써서 제출해야 하는데 날짜를 잊어 버리고 있었다.

아침에 하나를 썼다. 저녁에 다시 수정할 것.

두번째 것은 무엇에 대해서 써야 할까.

 

오랜만에 일본어를 써 본다. 3000자 정도를 고민하면서 썼던 적도 있는데, 역시 한국어나 일본어나 쓸 때는 쓰는 근력이 있지만, 안 쓰게 되면 글쓰기의 근력은 약해진다. 그것이 생각의 힘이든, 손가락의 힘이든 말이다.

 

 

수정 전 원고, 일단 저장

숙제는 제출했다. 현재 시각 오후 5시 10분.

 

年上の友達

 

私が新垣安子先生と会ったのは2005年の夏で沖縄にいった時でした。元々、先生と私の主人は研究者として会いました。2004年には先生夫妻は私の住んでいる島に訪問したことからその縁はむすばれました。先生夫妻は済州島の現代史に関心が深くて、その時は済州4.3祈念式に参加しました。2005年には私と主人が沖縄戦について勉強するために沖縄を訪問しました。その時、先生夫妻から沖縄戦の遺跡を案内していただきました。戦争遺跡巡りで日本の島、また韓国の島で起きた戦争について勉強になりました。さらにお互いの考えを話しながらお互いの世界観を発見する時間でした。私は研究者である二人に連られていって話を聞きながら二つの戦争が別々ではないことに気づきました。それから、私は沖縄の歴史や文化に興味ができました。

その時のから先生と私の付き合いが始まりました。下手な日本語だけど新垣先生に自分から手紙をかき、送ることになりました。先生の返事では沖縄戦以外にも沖縄の音楽や食べ物の話が沢山ありました。綺麗な文字の日本語だけど日本語初級者である私には読みにくい文章でした。でも日本からくる手紙を楽しみにお待ちしました。先生との付き合いで私は沖縄がもっと好きになりました。時には手紙だけなく小包を送ったり、貰ったりしました。先生がスマホを持っている3年前からはラインで写真やメールをしています。

それで先生と私は友達になり、16年の時間を過ぎました。先生は1946年、私は1964年生まれなの年の差は18年ですが、私としては先生が尊敬している年上の友達です。先生には私がどんな人間だろうと思う時もありますが、先生としても私が友達だと信じています。それは16年の長い付き合いの時間から見ればわかることじゃないですか。

 

 

島の地下には戦争の記憶がある。

 

私が住んでいる済州島は綺麗な自然で有名なところです。1970年代以後、この島は観光地で開発されて新婚旅行や学生の団体旅行が盛んで来ました。今もこの島は韓国のなかで一番愛される旅行地です。ところがこの島に戦争の遺跡がたくさんあること、それが旧日本軍の戦争遺跡であることはあまり知られておりません。 

この島には<オルム>と言う小さな山が360個以上あります。その山のなかで200 個以上

の山には太平洋戦争のときに洞窟が造られたんです。土を掘って洞窟を作るのは戦争が起きたら軍人が隠して逃げるためです。または軍備のためにも作られました。しかし、19458月、日本軍はアメリカとの戦争で負けて敗戦を向かいました。島の洞窟は使わなくてそのまま残って時間とともに崩れたりしましたが、丈夫な材料で作られたものは今もその時の形を持っています。

済州島の地下には悲しい歴史があります。なぜかというとその洞窟を直接掘った人々はその時の島の住んでいた若い青年がおおかったからです。日本軍は掘る命令をしたがこの島の人々はその命令を受けなければならない植民地の人でした。そして彼らの労働は残酷な支配の下で行われたことです。

たとえば、あなたがその洞窟を見に行きたいなら私は案内をしてあげます。歴史を記憶することには将来の歴史を正しく作ることだと思います。そしてその悲しい歴史を記憶する人々の延滞は大事なことだと信じています。ぜひ、この歴史の記憶を共になさいませんか。