なぜ、外国語で作文か。
日本語で作文をして見たい、その気持ちで一ヶ月に一回の日本語作文をして来た。始まったのが昨年の7月なので、今回で13回になる。考えしたがって、いつも韓国語の表現方法で書き、所どころ可笑しい日本語文章になってしまうが、それだからこそ楽しかった。外国人である私が日本人と同じレベルの文章づくりが出来たら、それは問題でしょう。日本語らしい文章づくりが可能だったら、外国語を習う楽しささえなくなってしまうだろう。
大体、毎月20日の辺りに作文を終わって、日本人の友人にメールで送ると、丁寧に読んで文章直しをしてくれる。そのお陰で、私は毎月、ある程度、原稿づくりが仕事である作家さんのように振る舞うのが好きだった。作文を送る日が近くなると、家の近所にあるカフェに行く。椅子に腰を掛けてずっとパソコンを打っていたら,カフェのお客さんが私をぎょろぎょろ見る。時によっては声を掛けられる。で、あなたは新聞記者ですかと質問ももらう。いいえと答えながら私は喜こんだ。何か、パソコン前の私が素敵に見えたかなと思いながら、生意気な気持ちが出て来て、ほんとにそんな素敵な人間になりたいという気持ちがぐっと浮かんだ。今は専業主婦だが、何時かは他人に素敵に見えるよう、しっかりと勉強して専門家になれたら良いな、とも思う。一ヶ月の一回の日本語作文をするのに、足がなくても想像は走って行く。未来の私は素敵な人になって、限り無く世界を駆ける。夢と想像だけはいつも大きく膨らませる私。それで、日本語で何かをして見ることが楽しみになる。
何時から、日本語に興味がわいてきたのか。実は、幼い頃から、日本を嫌がるよう教育を受けてきた。植民地の朝鮮は、36年間続いた日本国からの弾圧による被害者だという歴史教科書の内容は、一度も変わる事が無かった。それは、テレビ番組を見ても新聞を読んでも同じだった。高校時代までの試験でも、日本は悪い国だった、がいつも正解だった。
そのままの日本を学ぶ事も無く、別の歴史観を持つ機会も無かった私にとって日本は悪い国としての印象しかなかった。日本なら蔑視してもよいとする雰囲気で育ち、日本を嫌がること自体が愛国になった。社会全体の雰囲気はそうだけど、不思議なことだが、お金を稼ぐには日本が一番だった。密航の形でも日本に行ってきたら、畑を買ったり、家を建てたりした。苦労して働いたが密航のお陰で子供の進学ができた。その人が日本から持って来たのはお金だけではなかった。その人の日本での経験話と品物からは日本が素晴らしい国にみえた。日本製のものは信じられると、個人としての日本人は真面目だと、日本を見てきた人たちは言ってくれた。 なぜ学校の歴史教育はそうだったのか。どうして、隣国の正しい事を教えなかったのか。
私自身の中から日本への偏見を直し始めたのは村上春樹のお陰だった。勿論、韓国語で翻訳された本を読んだのだけど、そこには日本という別の世界があった。村上春樹のある短編小説の中に描かれていた居酒屋は興味深かった。
小説中の主人公は夜になると酒場に行く。そこで初めてあった人と人生の話をする。その晩、二人はすぐに付き合い、深い関係が結すばれる。でも、朝になったら、二人は何も無かったように気軽に別れる。日本ではそんな事ができるんだとビックリした。その短編小説を読んだ後、私の頭には今まで受けた歴史の内容がどんどん消えて行って、その分、春樹の小説の人々が席をうめた。
春樹の小説の日本人はとても優しく、特に男性は女性に対して親切だった。いつの間にか私は日本人に興味が出てきた。特に春樹の描いた男性とは付き合いたかった。小説を読みながら日本に居る私を想像してみた。幸せだな。でも、村上さんの本から異国にいく気持ちは味わえるけれど、私は日本語ができない。それでは、日本にはいけないだろう。
韓国語で翻訳された、春樹の別の本に作家の挨拶の言葉があった。彼はこのように言った。<本を読んだあと、英語でも日本語でも構わないので私に手紙を送ってください>。私は村上さんに日本語の手紙を書きたかった。日本語を学ぼうか。思ったとたん、日本語の塾に登録して日本語初級の勉強を始めた。でも、外国語で手紙を書くことなんか、すぐに出来るはずが無い。日本語がとても難しく感じるようになってしまった。単語は勿論のこと、文法も、勉強してもすぐに忘れてしまう。次第に日本語の勉強の確かな目標が徐々に消えていくようになった。手紙を書いても書かなくても構わないと思いながら、いつの間にか、春樹の本も読まなくなった。
村上さんの本を何冊も読んでから出来た夢だったが、それは空に浮かんでいる雲みたいな夢に近く、気持ちだけの始まりにすぎなかった。それで、私の日本語の能力は余り伸びなかった。日本語の塾に通うことも3ヶ月たったらいろんな理由がでてきて止めてしまった。でも、完全に放棄することも出来なかった。未練なのかどうか、いつかは日本語で手紙を書ける時がくるかも知れないと、日本語の勉強に力を入れないくせに、そう思ってきた。
でも、今になってみたら、雲の夢だったことは間違いないが、行き先が決まらない雲だからこそ、夢は自由に飛びまわり、日本に住むこと、旅行すること、日本人との付き合いができるように、道をあけてくれた。いつの間にか、私は村上さんの日本語の本を読めるようになった。いつの間にか、日本人と親友になった。店に入ったら幸せを感じると思ってきた居酒屋は、知らない人と会うことより、先ず、美味しいつまみを食べる楽しさを感じるようになった。で、何時の間にか、日本語で作文をするようになった。
先週、7月の作文をした。大体、3000文字で終わる作文はその日、2000文字で止まってなかなか進まず、文章の道を開けなかった。一晩、作文を休もうとした。翌日もそうだったので別のところに行ってきてみたら、今度は私の文章の行く場所が見えなくなった。
なぜ、私はこの話を書いているのか、このエピソードはこの作文になんの役をしているか分からない状態になった。そのなかで、なぜ、私は作文をしたくなったのか、また、慣れないままの外国語である日本語で作文をしようとしているのか。自分の考えと行動が理解できなくなった。
先週末、横浜にいってきた。在日韓国人の映画監督と今年の春、知り合いになって、招待を貰ったからだ。監督は自分の昔の映画上映と新作の映画計画報告(新作の制作報告)を見にきてくれと言った。行ってみたら、その映画は1923年の関東大震災の時の朝鮮人虐殺を基にして作られた映画だった。新作はその事件の残した家族を探す映画だった。沢山の日本人も参加していた。でも、その1923年のことは、隠蔽されてきて、それを知っている韓国人も、日本人も少ない。でも、その時の朝鮮人被害者は6,000人を超えたという。
若者に歴史の事を正しく伝えたい、それが悪いことでも、隠すことなく、やったことはやったと言える社会を作りたいと、横浜の人が言った。その人は今年、78歳のお祖母さん。昔は小学校の先生で、先生として働いていた時、学校では在日韓国人がいじめられることをよく見た。学校の差別は何処から起きたのか、考えるうちにそれは1923年の朝鮮人虐殺から、日本社会に作られたと思うようになり、日本が正しい国になるためには横浜で起きたその事件を正しく伝える事が大事だと信じて、それから市民運動をしてきたと言う。
韓国と日本はお互いの政治的な立場の違いで今までも戦ってきた。でも、それは全部ではない。教育を受けて自分の力で考えを持っている人も増えている。彼らは民族とか国にとらわれることなく、人類の範囲まで生き物としての価値を伸ばして考える人たちなのだ。だから、彼らはお互いに相手の歴史と文化を学びながら、興味を持って友だちになっている。
横浜で映画監督を応援しているその人々は、歴史をめぐって起きている今の日韓関係も解決できると信じている人の集まりだった。政治家に騙されず、自らこの国の責任を背負うとする人たちだった。あの78歳のお祖母さんは正しい歴史を知りたくて、韓国語もずっと勉強してきたという。私はその日、日本人の素晴らしさをその人からも見た。
私の作文に対する疑問も、その集まりの生き方から解けた。私は、日本をもっと知りたくて、日本語を学んでいる。その中で、勉強の方法として作文をしている。私の日本語の単語が今より増えたら、小説は勿論、他の本も沢山読めるのだ。外国語の本には、別の世界を見せるために奮闘する作家がいる。その作家の特別な考えをみるために、今日も作文をしてみることなのだ。外国語としての日本語を通じて、私の視野がもっと広がるようにと願っている。外国語は死ぬまで難しい世界であり続けるだろうが、流れるうちに整う川の小石ように、忘れながら覚えるべきものだろう。それで外国語である日本語は魅力満杯のものになる。私の日本語の作文作業も、その魅力を楽しむものになるだろう。
なぜ、外国語で作文か。(교정전.2017년 7월 25일. 김미정씀)
日本語で作文をして見たい、その気持ちで一ヶ月に一回の日本語作文をして来た。始まったのが昨年の7月なので、今回は13回になる。考え方にしたがって、いつも韓国語の表現方式で書き、所どころには可笑しい日本語文章になってしまうが、それからこそ楽しかった。外国人である私が日本人と同じレベルの文章つくりが出来たら、それは問題じゃないか。日本語らしきの文章つくりが可能だったら、外国語を習う楽しささえなくなってしまうだろう。
大体、毎月20日の辺りに作文を終わって、日本人の友人にメールで送ったら、丁寧に読んで文章直しをしてくれた。そのお陰で、私は毎月、ある程度、原稿つくりが仕事である作家さんみたいの身振りを好んで来た。作文を送る日が近くきたら、家の近所にあるカーフェーに行く。椅子に腰を掛けてずっとパソコンを打っていたら,カーフェーのお客さんが私をぎょろぎょろ見る。時によっては声を掛けられる。で、あなたは新聞記者ですかと質問もまらう。いいえと答えながら私は喜こんだ。何か、パソコン前の私が素敵に見えたかなと思いながら、生意気が出来て、ほんとにそんな素敵な人間になりたい気持ちがぐっと浮かんだ。今は専業主婦だが、何時かは他人に素敵に見えるよう、ジャンと勉強して専門家になったら良いな、とも思う。一ヶ月の一回の日本語作文をするのに、足がなくても想像は走って行く。未来の私は素敵な人になって、限る無く世界を掛け走る。夢と想像だけはいつも大きい膨らめる私。それで、日本語で何かをして見ることが楽しみになる。
何時からか、日本語に興味ができたことは。実、幼い頃から、日本が嫌がれる教育を受けてきた。植民地の朝鮮は36年間続いた日本国からの弾圧で被害者だという歴史教科内容は変わった事が無かった。それは、番組を見ても新聞を読んでも同じだった。高校時代までの試験でも日本は悪い国だったのがいつも正解だった。
そのままの日本を学ぶ事も無く、別の歴史観を持つ機会も無かった私にとって日本は悪い国としての印象しかなかった。日本なら蔑視してもよいとする雰囲気で育てて、日本なら嫌がる自体が愛国になった。不思議なところ、社会全体の雰囲気はそうだけど、お金を稼ぐためには日本が一番だった。密航の形でも日本に行ってきたら、畑を買ったり、家を立ちたりした。苦労して働いたが密航のお陰で子供の進学ができた。その人が日本から持って来たのはお金だけではなかった。その人の日本での経験話と品物からは日本が素晴らしい国だと見えた。日本製のものは信じられると、個人としての日本人は真面目だと、日本を見てきた人たちは言ってくれた。 なぜ学校の歴史教育はなぜそうだったか。どうして、隣国の正しい事を教えなかったか。
私自信から日本への偏見を直し始めたのは村上春樹のお陰だった。勿論、韓国語で翻訳された本を読んだけど、日本という別の世界があった。村上春樹の小説を読みながら、ある短編小説の中に描いていた居酒屋は興味深かった。
小説中の主人公は夜になると酒場に行く。そこで始めてあった人と人生の話をする。その晩、二人はすぐに付き合い、深い関係が結すばれる。でも、朝になったら、二人は何も無かったように気軽に別れる。日本ではそんな事ができるんだとビックリした。その短編小説を読んだ後、私の頭には今まで受けた歴史の内容がどんどん消えて行って、その分、春樹の小説の人々が席を置いた。
春樹の小説の日本人はとても優しく、特に男性は女性に対して親切だった。いつも間にか私は日本人に興味ができた。特に春樹の描いた男性とは付き合いたかった。小説を読みながら日本に居る私を想像してみた。幸せだな。でも、村上さんの本から異国にいく気持ちを味われるけれど 私は日本語ができない。それで、日本にはいけないだろう。
韓国語で翻訳された、春樹の別の本に作家の挨拶言葉があった。彼はこのように言った。<本を読んだあと、英語でも日本語でも構わないので私に手紙を送ってください>。私は村上さんに日本語の手紙を書きたかった。日本語を学ぼうか。思ったとたん、日本語の塾に登録して日本語初級の勉強を始めた。でも、外国語で手紙を書けることなんか、すぐに出来るはずが無い、日本語がとても難しく感じるようにしまった。単語は勿論のこと、文法も勉強しながら忘れちゃったからだ。次第に日本語勉強の確かな目標が消えていくようになってしまった。手紙を書くても書かなくても構わないと思いながら、いつの間にか、春樹の本も読まなくなった。
何冊の村上さんの本を読んでから出来た夢だったが、それは空に浮かんでいる雲みたいな夢に近く、気持ちだけの始まりにすぎなかった。それで、私の日本語の能力は余り伸ばさなかった。日本語の塾に通うとしても3ヶ月になったらいろんな理由がでてきてすぐ諦めた。でも、完全に放棄したことも出来ないことだった。未練かどうか、いつかは日本語で手紙を書ける時期があるかも知らないと、日本語勉強に力を入れないくせにそう思ってきた。
でも、今になってみたら、雲の夢だったことは間違いないが、行くことが決まり無い雲だからこそ、それで自由な夢は日本で住むこと、旅行すること、日本人との付き合いことができるように道をあげてくれた。いつの間にか、私は村上さんの日本語本を読めるようになった。いつの間にか、日本人と親友になった。店に入ったら幸せを感じると思ってきた居酒屋は知らない人と会うことより、先ず、美味しいつまみを食べる楽しさを感じるようになった。で、何時の間にか、日本語で作文をするようになった。
先週、7月の作文をした。大体、3000文字で終わる作文はその日、2000文字で止まってなかなか進まなく、文章の道を開けなかった。一晩、文章を休もうとした。翌日もそうだったので別のところに行ってきてみたら、今度は私の文章の行く場所が見えなくなった。
なぜ、私はこの話をしているか、このエピソドはこの作文になんの役をしているか分からない状態になった。そのなか、なぜ、私は作文をしたくなったか、また、慣れないままの外国語である日本語で作文をしようとしているか。自分の考えと行動に理解ができなくなった。
先週末、横浜にいってきた。在日韓国人の映画監督と今年の春、知り合いになって、招待を貰ったからだ。監督は自分の昔の映画上映と新作の映画計画報告を見てきてくれと言った。行ってみたら、その映画は1923年の関東大震災の時の朝鮮人虐殺を基にして作られた映画だった。新作はその事件の残した家族を探す映画になるものだった。沢山の日本人も参加していた。でも、その1923年のことは、隠蔽されてきて、それを知っている韓国人も、日本人も少ない。でも、その時の朝鮮人被害者は6,000人を越えたという。
若者に歴史の事を正しく伝えたい、それが悪いことすら、隠すことなく、やったことはやったと言える社会を作りたいと、横浜の人が言った。そんな話をした人は今年、78歳のお祖母さん、昔は小学校の先生で、先生として働いた時、学校では在日韓国人がいじめられることをよく見た。学校の差別は何処から起きたのか、考えるうちにそれは1923年の朝鮮人虐殺から、日本社会に作られたと思うようになり、日本が正しい国になるためには横浜で起きたその事件を正しく伝える事が大事だと信じてそれから市民運動をしていたと言う。
韓国と日本はお互いの政治的な立場の違いで今までも戦っていた。でも、それは全部ではない。教育を受けて自分の力で考えを立っている人も増えている。彼らは民族とか国にとらわれなく、人類の範囲まで生き物としての価値を伸ばして考える人なのだ。だから、彼らはお互いに相手の歴史と文化を学びながら、興味を持って友たちになっている。
横浜で映画監督を応援しているその人々は、歴史をめぐって起きている今の日韓関係も解決できると信じている人の集まりだった。政治家に騙されなく自らこの国に責任を背負うとする人たちだった。あの78歳のお祖母さんは正しい歴史を知りたくて、韓国語もずっと勉強してきたという。私はその日、日本人の素晴らしさをその人からも見た。
私の作文に対する疑問もその集まりの生き方から解けた。私は、日本をもっと知りたくて、日本語を学んでいる、その中、勉強の方法として作文をしている。私の日本語の単語が今より増えられたら、小説は勿論、他の本も沢山読めるのだ。外国語の本なら、別の世界を見せるため奮闘する作家がいる。その作家の特別な考えをみるため、今日も作文をしてみることなのだ。外国語としての日本語を通じて、私の目線がもっと広がれるようと願っている。外国語は死ぬまで難しい世界だが、流れるうちに整える川の小石ように、忘れながら覚えるべきのものだろう。それで外国語である日本語は魅力満杯のものになる。私の日本語作文作業もその魅力を楽しもうとすることになる。
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