2017년 6월 27일 수정완료
後悔とチャレンジの間で
紫陽花が好きになった。10年前に日本にいた時、6月になると、住んでいたところの近所では沢山の紫陽花が咲いていた。今まで見てきたものとは違うと感じた。紫陽花の群落がすごっく綺麗だなと思った。近くに行ってみたら、大きく丸い花の中には小さな花がそれそれの顔をしていた。 緑の葉の中で笑顔を見せるようにしていた。
私の頭の中にある紫陽花のイメージと言えば薄い青と白い色を混ぜた花で、田舎の彼方此方で見える夏の花に過ぎなかった。何処の土地でも生きる植物で、人の手が入らなくても、大丈夫な花に見えたので、綺麗だとは思わなかった。それなのに日本で紫陽花を見て驚いた。
ある日、友だちと遊びに行った寺で紫陽花の山を見たときだった。寺の入り口から多彩な花色の紫陽花が並んで立っていた。紫陽花が様々な色つきができることを初めて知った。育った土地の成分から色つきが様々になることが後に分かった。
韓国に戻った後、私の住んでる地域でも青い色つきの紫陽花だけではなく、別の色つきの紫陽花があることが分かった。以前は関心がなかったので見ても気づきなかっただろう。花屋では、日本で見たようなピンクとか紫とかの綺麗な紫陽花が売られていた。私は家で楽しめるように植木鉢の紫陽花を買った。夏の間は家の室内に置いた。知り合いから、その花を地面に移すと大きく育つと聞いた。私のマンションは一階なので、玄関前にある小さなベランダは私が管理でき、其処に紫陽花を移して植えた。来年の花を待つことにした。
一年が過ぎて移した紫陽花から花が咲いた。然し、前の植木鉢の時とは全然違う紫陽花が咲いた。前の濃いピンク色ではなく紫の花びらだった。50センチほど離れた処には別の紫陽花を植えたが、それも紫色でもなく、藍色に変わった。期待を完全に覆す結果だった。それが自然の本能と特色だろなあと思ったら可笑しかった。
今年も紫陽花が咲いた。家から外のベランダの紫陽花を見たら、植木鉢の花が土に戻ってぐんぐん育ち、自分の色を発散しているように見えた。自分の色を持つことを花から教わった。又、その色つきは自分の力にもなるだろうと思った。
いつの間にか紫陽花の花びらから娘の顔が浮かんで来る。
先週、娘から私は切られちゃった。電話が繋がらない。切られるのは今回で二回目なのだ。一回は1年半くらい連絡が途絶えた。今度は長いだろうと予想している。私が、なぜ娘の邪魔になったかは、今のところ分からない。娘は自分からは細かい説明をしたくないのに、相手からは深い理解と愛情を貰いたがる性格だ。で、今回のことも私が深い愛を持って娘を理解しなくてはいけないことになった。
以前から娘の複雑な気持ちは分かっていた。時時、娘はつっけんどんな言い方で自分の怒りを表した。電話線の向こうからの声、声のいろ、話し方から、娘の言葉に隠した本音と感じ方がすぐに分かってきた。そのたびに私は疲れてしまったが、私の気持ちを表さないように気をつけた。それで、私は我慢しながら可哀想な娘を受けようとしたが、実は、私の心の中でも怒りがわいた。
5年前の2012年に、25年間も離別して合えなかった娘と再会するようになった。その前の何年間は、いろんな方法を利用して娘に連絡を取った。でもなかなか娘とはつながらなかった。2012年の夏の末、突然、電話が来た。娘からの連絡だった。
会ってみたら、3歳になる前に別れた赤ちゃんは、嬢様になっていた。とてもさびしい気分とともに、母がなくても綺麗な成人になった事に感謝した。勿論、娘も自分の存在を忘れずに探してくれたことに感謝していると言った。その後、5年の間、娘は大学の専攻を生かして自分の仕事場を作った。昨年は性格の良い人と結婚もした。
だが、私との関係は余りうまく続かなくなった。時によっては三歳の子供みたいな行動をしながらも、時時は厳しい目線で母を判断した。非難めいた言葉使いが気になったが、私が育てることがなかった娘の立場も理解しようと、私はいつも必死だった。私の知り合いは、久しぶりに会った母子関係だから普通の母子関係とは違って、難しいはずだと言った。当然のことだと思っても、心には疲れが溜まった。
娘の行動と言葉が理解できない時、私は娘の手を放した昔の私の行動を後悔した。その時、未婚母だった私には未来が見えなかった。先ず、お金を稼ぐ職場がなかった。
彼はその時、小学校の先生だった。私の胸は痛くても、幼い娘の未来のためには、娘の実家の父の方に任せる事が正しいと判断した。だが、娘と会ったことから新しい悩みが出てきた。娘と上手くいかないときは、幼い娘を手放した私自身が憎かった。娘が、義理の母から耐えられない虐待も受けた事を聞いた時には、私自身を許せなかった。又、娘の将来のため、娘が私の顔を覚える前にもっと早く娘と離れるように強く言った、私の両親にも怒りをおぼえた。
でも、その結果、何がよかったのか。娘の心が痛みのせいで綺麗じゃないことは私の責任だと思ったら思うほど、私の自分に対しての怒りは大きくなった。
後悔が怒りを呼んできた。
それでも、時によっては関係がうまくいかないその理由が、娘の心根のせいだとも思われた。娘の身に着いた善くない気質の全部を、娘の父と結びつけて考えた。娘の生き方と考え方、人間に対しての価値観、などが、私が知っていた、それであわなかった娘の父と似ている事が多いと思った。いつの間にか私の心には、娘を信頼できないために距離感が出てきた。私が産んだのは事実だが、成人になって会った彼女は、娘じゃなく嫁とか他人だと見ようとした。そうしたら寂しさはあったけど、怒りは落ち着いた。
然し、娘はその家庭の雰囲気から逃げて、自分の力で独立をした。それくらい娘の精神は正しいことを目指していて、世の中を生き生き生きるだろうと私は思った。娘も自分の幼い頃の経験を話しながら、父が悪かったとよく言った。でも、そんな父に罰をあげたいと話ながら、父からお金の見返りも願った。娘の父に対しての怒りは、その見返りが思い通り来ないから腹を立てているとも思えた。家を出て独立した成人であり、お嫁になったのだから、今からはその父に何の願いもしない方が良いのではないかと私は助言してあげた。だが、娘にとっては聞きたくない言葉だった。
それを分かったのは最近だ。母からの助言なんて要らない、自分の考えをいつも賛成する母なら我慢できると、話はしなかったが娘の心のどん底を見たような気がした。もしかすると、私が切られちゃったのはそのアドバイスのせいだろう。
よく見たら、娘の人間関係は、母である私以外でも余りよくない事に気付いた。でも、それくらい、幼い娘が経験したことは辛かったのか。そう思ったら、私が一番悪かったのは、娘を産んだ事とそれ以前に娘の父である、その男性と付き合ったことだ。
遡れば、私が失った事は沢山ある。その男性との悪い縁が無かったら、大学生活をして、それと繋がって学校の国語の先生にもなったはずだ。その男性との付き合いが無かったら、私の人生はもっと元気だったはずだ、と思ったとたん、私の悔やみは山ほど大きくなった。
今更、直せることは何も無いのに、悔しさの山に囲まれた私は、彼を憎み、娘を産んだ事を後悔し、馬鹿だった自分を許せなくなった。其処に来たのは無気力。過去を直したがるが、出来ない自分への無気力だ。
室内から外の庭を見る。鳥の声が聞こえる。鳥は自分の今日を頑張ってるねと呟いた。又、ベランダの紫陽花をみた。昨日よりもっと綺麗な花びらが見える。育つ土地の成分によって花色が違うその花に娘の顔を重ねる。
娘と私が通じ合えないこと、急に切れちゃったことはどう考えたら良いのか。娘との難しさに心が痛くて体も弱くなった何日間、私の目は過ぎてしまった時間に止まった。それで、今日は無気力な自分だけが残っている。外の生き物は活発に今日の時間を過ごしているのに。
私の今日はどこにいるの。で、もう考えを直そう。今なお、私を捨てている娘の判断は自分なりの理由があるはずだ。だから、それを認めよう。それから、娘は自分に合う地で自分の根を伸ばして自分らしい色付けをするはずだ。その結果は娘の人生なのだ。
そしたら、私も娘と親離れをしよう。過去の出来なかった親のとしての責任感で足を奪われることから抜け出して、一人の人間としての私の人生を作ろう。どのくらい残っているか全然わからない人生の時間を大切にしよう。 昨日の過誤は明日に直せる。昨年の過誤は来年に直せる。だが、私の人生が終わる日に過誤を後悔しても、また直せる機会は全く無いのだ。だから、今からの時間を大切にしなきゃいけない。
今までの後悔は、今日から直すことができる明日のチャレンジに代えることを決心した。
鳥と花のように必死に今日を頑張って生きて、目線を明日に向けて、その一日を大切にしたら私の人生にも新しく綺麗なの色付が出てくるだろう。まだ、私には自分らしく生きる時間があるので、今からのチャレンジを精一杯しよう。
(수정 과정)
後悔とチャレンジの間で
紫陽花が好きになった。10年前に日本にいた時、6月になると、住んでいたところの近所では沢山の紫陽花が咲いていた。今まで見てきたものとは違ったうと感じた。紫陽花の群落がすごっく綺麗だなと思った。近くに行ってみたら、大きく丸くい花の中には小さな花がそれそれの顔をしていた。 緑の葉の中で笑顔を見せるようにしていた。
私の頭の中にある紫陽花のイメージなら(イメージは、もしくは、イメージといえば)、薄い青いと白い色がを混ぜた花で、田舎の彼方此方で見える夏の花に過ぎなかった。何処の土地上でも生きる植物で、人の手がを入らなくても、大丈夫な花に見えたので、綺麗だとは思わなかったと気がした。それなのに日本で紫陽花を見て驚いた。
ある日、友ただちと遊びに行った寺で紫陽花の山を見たときだった。寺の入り口から多彩な花色の紫陽花が並んで立っていた。紫陽花がなんてそんなに様々な色つきができることを初めて知るようになった。立ている育った土地の成分から色つきが様々になることが、を後に分かった。
韓国に戻った後、私の住んでる地域でも青い色つきの紫陽花だけではなく、別の色つきの紫陽花があることをが分かった。以前は関心がなかったので見ても見えなかった(見ても気付かなかった)だろう。花屋では、日本で見たようなピンクとか紫とかの綺麗な紫陽花が売られていた。私は(家で)楽しめるようにとして植木鉢の紫陽花を買った。夏の間は家の室内に置いた。知り合いから、その花を地面に移すとして大きく育つことが出来ることを聞いた。私のマンションはが一階なので、玄関前にある小さなベランダはが私がの管理ができ、其処に紫陽花を移して植えた。来年の花を待つことにした。
一年が過ぎて移した紫陽花から花が咲いた。然し、前の植木鉢の時とは全然違う紫陽花が出てきた(が咲いた)。前の濃いピンク色ではなく紫の花びらが出て来た(花びらだった)。50センチのほど離れた処には別の紫陽花だがを植えたが、それもは紫色でもなく、藍色に変わった。期待したことを完全に覆す倒す事だった(結果だった)。それが自然の本能と特色だろなあと思ったら面白かった(可笑しかった)。
今年も紫陽花が咲いた。家から外のベランダの紫陽花を見たら、植木鉢の花が土に戻ってぐんぐん育てち、自分の色を発散するように見えた(発散しているように見えた)。自分の色を持つことを花から習った(教わった)。又、その色つきは自分の力にもなることかなと思っただろうと思った。
いつの間にか紫陽花の花びらから娘の顔が浮かんで来る。
先週、娘から私は切られちゃった。電話が繋がらない。切られるのは今回は二番で二回目なのだ。一回は1年半くらいに連絡が切れた(が途絶えた)。今度は長いだろうと予想している。私が、なぜ娘の邪魔になったかは、今のところ分からない。娘は自分からは細かい説明をしたくないだがのに、相手からは深い理解と愛情を貰いたがる性格だ。で、今回のことも私が深い愛を持って娘を理解しなきゃ(理解しなくては)いけないことになった。
以前からも娘の複雑な気持ちは分かってきたいた。時時、娘はつっけんどんな言い方で自分の怒りを表せした。電話線の向こうからの声、声のいろ、話のし方から、娘の言葉に隠した本音と感じ方がすぐに分かってきた。そのたびに私は疲れてしまったが、私の気持ちを表さないように気をつけた。それで、私は我慢しながら可哀想な娘を受けるようとしたが、実は、私の心の中でも怒りがわいた。
5年前の2012年に、25年間もの離別して合えなかった娘とを再開再会するようになった。その前の何年間は、いろんな方法を利用してながら娘に連絡を取った。でもなかなか娘とはつながらな無かった。2012年の夏の末、突然、電話が来た。娘からの連絡だった。
会ってあってみたら、3歳になる前に別れた赤ちゃんは、お嬢様になっていた。とてもさびしい気分と供ともに、母がなくても綺麗な成人になった事に感謝した。勿論、娘も自分の存在を忘れずになく探してくれたことに感謝していると言った。その後、5年の間、娘は大学の専攻を生かして自分の仕事場を作った。昨年は性格の良い人と結婚もした。
だが、私との関係は余りうまく続けかなくなった。時によっては三歳の子供みたいな行動をしながらも、時時は厳しい目線で母を判断した。非難めいたらしく言葉使いが気になったが、私が育てることがなかったつこと無かった娘の立場も理解しようと、私はいつも必死だったする事しかなかった。私の知り合いは、久しぶりに会ったあった母子関係だから普通の母子関係とは違って、難しいはずだ、のことだっと言った。当然のなことだっと思っても、心には疲れが溜まった。
娘の行動と言葉が理解できない時、私は娘の手を放した昔の私の行動を後悔した。その時、未婚母だった私には未来が見えなかった。先ず、お金を稼ぐ職場がはなかった。 彼はその時、小学校の先生だった。私の胸は痛くても、幼い娘の未来のためには、娘の実家の父の方にに任せる事が正しいと判断した。だが、娘とを会ったことから新しい悩みが出てきた。娘と上手くいかないときは美味くないときなら、幼い娘を手放した私自身が憎かった。娘が、義理義務の母から耐えられない虐待も受けた事を聞いた時には、私自身を許せなかった。又、娘の将来のため、娘が私の顔を覚える知る前にもっと早く速く娘と離れるようにことを強く言った、私の両親にも怒りをおぼえたがした。
でも、その結果、何がよかったのか。娘の心が痛みのせいでにせいかで綺麗じゃないことは私の責任だと思ったら思うほど、私の自分に対しての怒りは大きくなった。
後悔が怒りを呼んできただ。
それでも、時によっては関係がうまくいか出来ないその理由が、娘の心立て(心根?)のせいだとも思われた。娘の身に着いけた善くない気質の全部を、が娘の父と結びつけて考えたたと思ってきた。娘の生き方と考え方、人間に対しての価値観、などが、 私が知っていた、それで会え合えなかった娘の父と似ている事が多いと思ったかったと思われた。いつの間にか私の心には、娘をに信頼ができない出来ないのでために距離感が出てきた。私が産んだ生んだのは事実だが、成人になって会ったあった彼女は、 娘じゃなく嫁とか他人だとで見ようとした。それなら、そうしたら寂しさはあったけど、怒りは落ち着いた。
然し、娘はその家庭の雰囲気から逃げって、自分の力で独立をした。それくらい娘の精神は正しいことを目指していて、世の中を生き生き生きるだろうと私は思った。娘も自分の幼い頃の経験を話しながら、父が悪かったとよく言った。でも、そんな父に罰をあげたいと話ながら、父からお金の見返りも願った。娘の父に対しての怒りは、その見返りが思い通り来ないから腹を立てているとも見えた(思えた)。家を出て独立したて成人であり、お嫁になったのだからで、今からはその父に何の願いもしない方が良いのではないか、じゃないかとの私は助言してあげあた。だが、娘にとっては聞きたくない言葉だった。それを分かったのは最近だ。母からの助言なんて要らない、自分の考えをいつも賛成する母なら我慢できると、話はしなかったが娘の心のどん底を見たようならしく気がした。どうかもしかすると、私が切られちゃったのはそのアドバイスのせいだろう。
よく見たら、娘の人間関係は、母である私の以外でも余りよくない事にが気付いた気ついた。でも、。それくらい、幼い娘が経験したことはが辛かったのか。そう思ったら、私のが一番悪かったのは、娘を産んだ事とそれ以前に娘の父である、その男性と付き合ったことだ。、さかのぼれば(遡れば)坂のぼりをしたら、私がの失った事はが沢山あるだ。その男性との悪い縁が無かったら、大学生活をして、それとを繋がって学校の国語の先生にもなったもしたはずだ。その男性との付き合いが無かったら、私の人生はもっと元気だったはずだ、。と思ったとたん、私の悔やみは山ほど大きくなった。
今更、直せるすことは何も無いのに、悔しさの山に囲まれた私は、彼を憎み、娘をの産んだむ事を後悔し、馬鹿だった自分を許せなくなないことにしまった。其処に来たのは無気力。過去を直したがるが、出来ない自分への無気力だ。
室内から外の庭を見る。、鳥の声が聞こえる。鳥は自分の今日を頑張ってるねと呟いた。又、ベランダの紫陽花をみた。昨日よりもっと綺麗な花びらが見える。育つ立てる土地の成分によって花色が違うその花に娘の顔を重ねる。
娘と私が通じ合えいがよくないこと、急に切れちゃったことはどう考えたら良いのか。娘との難しさに心が痛くて体も弱くなった何日間、私の目は過ぎてしまった時間に止まった。それで、今日は無気力な自分だけが残っている。外の生き物は活発に今日の時間を過ごしているのに。
私の今日はどとこにいるの。で、もう考えを直そう。
今なお、私を捨てている娘の判断は自分なりの理由があるはずだ。だから、それを認めよう。それから、娘は自分に合う地で自分の根を伸ばして自分らしい色付けをするはずだ。その結果は娘の人生なのだ。
そしたら、私も娘と親離れをしよう。過去の出来なかった親のとしての責任感で足を奪われることから出てきて(抜け出して)、一人の人間としての私の人生を作ろう。どのくらい残っているか全然わからない知らない人生の時間を大切にしよう。 昨日の過誤は明日に直せる。昨年の過誤は来年に直せる。だが、私の人生がの終わる日に過誤を後悔しても、また直せる機会は全く無いのだ。だから、今からの時間を大切にしなきゃいけない。
今までの後悔は、今日から直すことができる明日のチャレンジに代える交わすことを決心した。
鳥と花のように必死に今日を頑張って生きて、目線を明日に向けかって、その一日を大切にしたら私の人生にも新しく綺麗なの色付が出てくるだろう。まだ、私には自分らしくい生きる時間があるので、今からのチャレンジをに精一杯しよう。
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