字夢のノート(공책)/日本語の勉強屋

最後の挨拶 /3年間の作文練習(15)

자몽미소 2017. 9. 22. 18:39

2017년 9월 24일, 일본어작문 수정



最後の挨拶

 “夏にも紅葉するのね”

夏休みの二ヶ月間、私が住んでいた大学のゲストハウスの周辺は 夏の活気で緑に囲まれ、ずっと生き生きとしていた。 宿舎の窓の向こうに見えるのは緑の木と草ばかりで、夏の森だからこそ全ての木は緑の葉っぱを持つと、そう思った。八月のある日、キャンパスの散歩道を通過した時、落ちていた葉っぱが目に入った。秋になるのには遠い、夏の暑さの中で、もう死んでしまった葉っぱはかさかさした。紅葉は秋だけのものではない。夏ではなく春にも落ちてしまう木の葉っぱは沢山あるのに、そんな自然の現像に今更気づいた。


 


帰国準備で忙しかったある日、従妹から連絡が届いた。従妹の父であり、私の母の弟であり、私の叔父さんのことだった。叔父さんは3年前、肝臓がんと診断された。その時、私たちの親戚は病気見舞いをして、その年の年末か新年の春には永遠の離別がくることを覚悟した。その後、従妹を逢うたび、叔父さんの状態を聞くようになった。だが、心から離別を準備した年末の頃から、叔父さんの体は回復に向かって、以前のように元気な生活をしていたそうだ。生活の変化はお酒を止め、タバコを止め、仕事までやめたことで、毎日、散歩は必ずして、友たちとは余り高くない山の道を歩くことも楽しんだそうだった。体に良い健康食品と口にあうもの食べるうちに健康が戻ったと、叔父さんは言った。


今年の春に母の兄である、伯父さんが81歳で亡くなった。その時、親戚が集まった。母と叔父さんは兄弟の一人が亡くなったことで寂しいだろうけれど、私は何よりも、癌から回復して元気な叔父さんに会えたことに感謝の気持ちが強かった。通夜の時は、叔父さんは明るい顔色で最近の夫婦旅行の話もしてくれた。3年前の診断はお医師さんの誤診じゃないかと、集まっていた親戚たちは話していた。誤診だったらいいのに。


それで、私は、叔父さんの癌は完全に治り、医師の誤診だったのだと思った。そのほうが私には便利だし、心も楽だから、そのように信じた。70歳なので、まだこの先も必ず長いと信じたかった。ところが、従妹の電話ではそうじゃなかった。八月の初旬から急に悪くなって入院したが、医師からは何も出来ない状態になったと聞いたそうだ。癌は体全体に広がって、医師の手は要らないことになったと。


先週からはホスピスの病院に運ばれたと、従妹は静かに話しながら、私が何時、帰国するのかを訊ねた。帰国二日前のその日、急に叔父さんに電話をしたが、何も話せない状態だった。そんな状態だとは想像していなかったので、はっとした。


帰国して、その日のうちに見舞いに行ったが、叔父さんはもう目も開けない。翌日亡くなった。


8月の初旬、北海道に旅行した時、叔父さんから電話が掛ってきたことがあった。スマホの音を無音にしたせいで、後から確認したが、その時は汽車に乗ったところだった。東京に戻ったら電話をしてみようと、軽く思った。いつものように用件なしの電話だろうと思った。叔父さんは、いつも私のことを「教授の奥さん」と呼びながら面白くからかう。そのための電話だろうと思った。いつもと同じだと。


葬式の時、分かった。叔父さんはその電話で私に最後の挨拶を準備していたことを。葬式に参加した私の妹にも叔父さんから電話がかかってきて、いつものように用件なしの会話をしたと、それで叔父さんが病気になったとも思わなかったくらい、明るい声だったと話しながら、妹は泣き続けた。信じられないと言いながら泣いている妹を、写真の中の叔父さんが笑いながら見ていたようだ。


私は、ごめんなさいと呟いた。何回も何回も。でも、絶対に戻らない道を歩み始めた叔父さんからは、声が聞こえなかった。


葬式の日に、お母さんは、私の母というより、兄弟と離れてしまった小さいな女の子みたいに見えた。腰が丸く曲がってしまったお婆さんになっても、今は兄弟のなかで、ただ一人残った。お父さんもお母さんも亡くなって、今はその家族の中で独りになった女の子は、弟の名前を呼びながら泣いた。秋の葉っぱのように力が抜けてかさかさしたお母さんの後ろ姿を見ながら、人間の宗教を思った。死んだ後はあの世があると信じなかったら、人間は愛する家族の永遠の離別と自分の死をどうしても受け入れられないかも知れない。


韓国古典文学で“祭亡妹歌”という詩があって、その一節を思い出した。


 



このにあるのでいさよい


こう、と挨拶もしなくて


どうして行ったのですか。


ある早朝


彼方此方ちるっぱのように


からえても


くところをれないな。


あ、あ、


彌陀刹


ながらつのだ


 


日本にいる間、沢山の死を聞いた。大体は新聞や放送からのことで、聞いても見ても、私の力では何も出来ないニュースの中のことだった。


病院で病気で亡くなるのは当然のことかもしれない、だが、今回の日本の夏は大雨で亡くなった人々、事故で亡くなった人々、思わぬところで人が死んだ。死は急に、予想も出来ないうちに来てしまった。そのことは私にも起きる事。でも、それを全然気づかずに日常の時間は流れていく。夏にも紅葉は落ちる。夏が来る前、春にも自分の生命を生かせないものはある。生まれることも死ぬことも、自分の意思ではなく自然のこと。寂しいけど、人も自然の一部分なので、早く来た死を受け入れるべきか。そう思ってみても知人の死は受け入れにくいのだ、又、自分の死だったらもっと受け入れにくいはずだ。70歳の叔父さんは、生き甲斐を味わうことを願ったが、行きたくない道を行くことになった。私も何時か行く道だが、今日は最後の挨拶をしなかったことがもっとも寂しい。




2017년 9월 21일, 일본어 작문

1차 원고.



最後の挨拶 


“夏にも紅葉が出てくるね。”

夏休みの二ヶ月間、私が住んでいた大学のゲストハウスの周辺は 夏の活気で緑に囲まれ、ずっと生き生きした。 宿舎の窓の向こうに見えるのは緑の木と草ばかりで、夏の森だからこそ全ての木は緑の葉っぱを持つと、そう思った。八月のある日、キャンパスの散歩道を通過時、落ちていた葉っぱが目に入った。秋になるのには遠い、夏の暑さの中でもう死んでしまった葉っぱはかさかさした。紅葉は秋だけのものではない。夏では無く春にも落ちてしまう木の葉っぱは沢山なのにそんな自然な現像を今更気づいた。


帰国準備で忙しかったある日、従妹から連絡が届いた。従妹の父であり、私の母の弟であり、私の叔父さんのことだった。叔父さんは3年前、肝臓がんに診断された。その時、私たちの親戚は病気見舞いをして、まさか年末か新年の春には永遠の離別を覚悟した。その後、従妹を逢うたび、叔父さんの状態を聞くようになった。だが、心から離別を準備した年末の頃からは叔父さんの体は回復を進んで、以前のように元気な生活をしていたそうだ。生活の変化はお酒を止め、タバコを止め、仕事までやめたので、毎日、散歩は必ずして、友たちとは余り高くない山の道を歩くことも楽しむそうだった。体に良い健康食品と口にあう食べるうちに健康が戻したと、叔父さんは言った。

今年の春に母の兄である、伯父さんが81歳で亡くなった。その時、親戚が会った。母と叔父さんは兄弟の一人が亡くなったことで寂しいけれど、私は何よりも癌から回復して元気な叔父さんに感謝の気持ちだった。通夜の時は叔父さんは明るい顔色で最近の夫婦旅行の話も言ってくれた。3年前の診断は医師さんの誤診じゃないかと集まっていた親戚たちが伺った。誤診の事だったら良かった。

それで、私は叔父さんの癌は完全に治したと時には医師の誤診だっと思った。そのほうが私には便利だじ心もらくだから、そのように信じた。70歳なので先の来る日も必ず長いとしんじたかった。従妹の電話ではそれじゃなかった。八月の初旬から急に悪くなって、入院したが医師からは何も出来ない状態になったと聞いたそうだ。癌は体全体に広がって、医師の手を要らないことになったと。

先週からはホスピスの病院に運ばれたと、従妹は静かに話しながら私は何時、帰国するかを訊ねた。帰国二日前のその日、急に叔父さんに電話をしたが今は何も話せない状態だった。そんなことまでは思わなかったので、はっとした。

帰国して、その日のうちに見舞いをしたが、叔父さんはもう目も開けない。翌日亡くなった。

8月の初旬、北海道に旅行した時、叔父さんから電話が掛ってきたことがあった。すまほの音を無音にしたせいで遅く確認したが、その時は汽車を乗ったところだった。東京に戻ったら電話をしてみようと、軽く思った。日頃のように用件なしの電話だっと思った。叔父さんは、いつも私教授の奥さんと呼びながら面白くからかう。それをための電話だっと思った。平日のおなじだっと。

葬式の時、分かった。叔父さんはその電話で私に最後の挨拶を準備したことを。葬式に参加した私の妹も叔父さんから電話をかかってきて、平日のように用件なしの会話をしたと、それで叔父さんが病気になったことも思わなかったくらい、明るい声だっとはなしながら、妹は長く泣いた。信じられないっていいながら泣いている妹を写真の中の叔父さんが笑いながらみていたようだ。

私は、ごめんなさいと呟いた。何回も何回も。でも、絶対に戻らない道を歩み始めた叔父さんからは声が聞こえなかった。

葬式の日に、お母さんは、私の母より、兄弟と離れてしまった小さいな女の子みたいに見えた。腰が丸く曲がってしまったお婆さんになっても、今は兄弟のなかでただに一人が残った。お父さんもお母さんも亡くなって、今はその家族の中で独りになった女の子は、弟の名前を呼びながら泣いた。秋の葉っぱのように力が抜いてかさかさしたお母さんの後姿を見ながら、人間の宗教を思った。死んだ後はあの世があると信じなかったら、人間は愛する家族の永遠の離別と自分の死をどうしても受けられないかも知れない。

韓国古典文学で“祭亡妹歌”という詩が会って、その一区切りが思い出した。 


このにあるのでいさよい

こう、と挨拶もしなくて

どうして行ったのですか

ある早朝

彼方此方ちるっぱのように

からえても

くところをれないな

あ、あ、

彌陀刹

ながらつのだ


日本にいる間、沢山の死を聞いてみた。大体は新聞や放送からのことで、聞いても見ても、私の力では何も出来ないニュースのことだった。

病院で病気で亡くなる人は当然なことかもしれない、だが、今回の日本の夏は大雨で亡くなった人々、事故で亡くなった人々、思わぬところで人が死んだ。死は急に、予想も出来ないうちに来てしまった。そのことは私にも起こられる事。でも、それを全然気づかなく日常の時間は流れていく。夏にも紅葉は落ちる。夏に来る前、春にも自分の生命を生かせないものはある。生まれも死ぬ事も自分の意思ではなく自然のこと。寂しいけど、人も自然の一部分なので、早く来た死を受けるべきか。そう思ってみても知人の死は受けにくいのだ、又、自分の死だったらもっと受けにくいはずだ。70歳の叔父さんは生き甲斐が味わうことを願ったが行きたくない道を行くことになった。私も何時か行く道だが、今日は最後の挨拶をしなかった事がもっとも寂しい。