수정( 2017년 11월 28일 화요일)
11月の作文
お姉さん、ぜひとも生きてください。
11月7日に、本ができあがった。私一人の出版社で二番目の本だ。今回の本は社会学研究者である主人が発掘した資料をもとにして、読者に読みやすく編集したものだ。個人の自分史となる本だが、元の書き手が日本統治時代の朝鮮人なので、歴史資料としての意味もある。残念ながら書き手は15年前にもう亡くなって、資料だけが私たちの手に入った。日本統治時代の南洋郡島を調査するために、サイパン島とテニアン島に訪問した2013年の1月のことだった。それから今年まで5年の時間が過ぎた。何回かの編集を繰り返しながら現代国語の文章に直して、今回の本になった。
1冊しかない出版社と二冊ある出版社は、どこから見ても同じ、小さい会社だが、二番目の本を見ている私の心だけは大きく違う気がする。この本は今年一月に作った私の自分史の本とは全然違うからだ。10年間の日記を集めて作った一番目の本は、なんか恥ずかしいところもあったが、二番目の本からは世の中に勇気を持って足を踏み出そうと思えた。一人の社長であり、一人の編集者であり、一人の役員だけの私の小さな会社だけれど、今からは出版社らしくなれると思って嬉しい。実は前の本は知り合いに配って、印刷した残りの半分はそのまま家に置いていた。だが、今回の本はインターネットのオンライン書店にも紹介されていて、新聞にも記事になっている。いよいよ、出版社も自信を持っていいよ、と私は自分に言い聞かせている。
本をインターネット書店に上げて、買いたい人に見せられ、そこで買えることまでの仕組みが終わった先週の夜、寝ようかとしても寝られなかった。初めて、私の手で作った本を世の中に商品として売り出した達成感と、その本が愛されるかどうか心配する気持ちがあった。それと同時に、完成したあとの安心感に包まれた。昔は今日のような日が来ることなど全然予想できなかったので、嬉しい気持ちはさらに大きくなった。昔の思い出が突然浮かんだ。
私は深夜の真っ黒な道を歩いていた。海のほうに行くところだった。
35歳の私は離婚して息子と二人きりの生活をしていた。離婚を願ったが、その後のすべてはまた難しい。経済も精神も不安定な日々。保険営業職とか学習誌の訪問教師をしながら、もっと安定的な職場を探した。良かったことは 学校の教師になったこと。職場の学校に入ると大学の専攻とは関係ない仕事を回されたが、学校なので毎月の給料はシングルマザー補助が付いた。二人の生活の経済が少し安定したのだ。でも、私は幸せを感じられなかった。それより、自分の人生のいろんな悪いこと、悪い人との因縁を思い過ぎて、私の失敗した人生を悔やむ気持ちばかりだった。周辺の人からの冷たい評判も気になった。職場では演技する俳優のようにニコニコ顔をしていたが、夜になってひとりになるとよく泣いた。涙のせいで寂しい気持ちになって、考えば考えるほど、私の人生は生きる価値がないと思えた。
ある日、居酒屋で知り合いと会った。その時、幼い息子は一人で家においてきた。二人か三人か、誰と会ったか、何の話をしたかは今は思い出せない。お酒を飲んだその場から、彼らと別れて家に戻る途中,私は死ぬ決心をしたことを思い出す。死ぬ方法は海で落ちることと決めた。それで息子が寝ている家に戻らずに、北の方にある海辺に向かう道を歩き始めた。私が死んだ後の息子のことが気になったが、ひとりで残る息子より、私の辛い心の方がもっと大きく思えた。死ぬしかない自分に怒りがわいて我慢できなかった。私の人生の何が失敗か、何が問題か、死にたい本当の理由は何か、実は分からなかった。でも、死ぬなら海で死ぬとそれだけがハッキリしていた。毒薬を飲んだ人の苦しさが怖い、高いところから落ちた後、死ぬ事が出来ないまま足とか体の障害だけが残ることも面倒くさい。家の中には首を絞める場所がないし、死んだあとの私を発見する息子が気になる。で、海で泳げない私は海の中に入って、そのまま歩いてずっと沖の方に行ってからいつの間にか津波が来たら、死にやすいと思った。
しかし、歩いても歩いても海辺には着けなかった。1時間以上も歩いたので、 海辺に着くはずの距離なのに、海の波音すら聞こえなかった。周辺が静かな深夜、すぐ死ぬ私としては人影もいないその道も怖くなくて歩き続けた。少し時間が流れ、遠いところから光が見えた。新しい道があるかと思ったらそうではなく、道は鉄条網の壁で行き止まりになっていた。 突然、光の下に人影が見えた。私に気づいた彼が急に「止まれ!」,と命令した。 彼は飛行場を警備している20代の兵隊さんだった。 彼は又、「誰だ!」と叫んだ。彼は銃を持って鉄条網の向こうの望楼の上にいた。鉄条網の壁は飛行場を囲んでいた。
私は道を探していると答えた。彼は、道はない、と答えながら何処に行くのかとまた聞いた。私は、海に行きたくて海辺に行ける道を教えてくれ、とお願いした。彼は海辺に行ける道を教えずになぜ海辺に行こうとしているかを質問した。私が立っている場所と海辺の間にはチェジュ空港の広い飛行場があることを知った。そして、そこからは海の方に行けないことも分かった。
深夜の望楼と突き当たりの道で、彼と私がいた。彼は私が危険な人ではないことをわかったようだ。気を許した彼の声は、先ほどよりもっと明るく若かった。私は人間関係の辛いこと、生き甲斐が見えないこと、結婚も仕事もうまくできない自分が失敗した人に思えること、それで死にたい、などなど、彼の質問に従って話した。私の話を聞いた後、別れるとき、彼は私にお願いをした。お姉さん、ぜひとも生きてください。
その晩、わたしは息子が寝ている部屋に戻って、翌日には仕事場の学校に行って、何もなかったように過ごした。その後も憂鬱な気持ちがなくなるわけではなかったが、死にたいなどと気違い沙汰はしないようにした。恥ずかしいことはしたくないという気持ちが、馬鹿なことをしないようにさせた。
次第に私は、私の人生に何が一番いいかを考えようになった。自分を活かすならば、本と勉強しかないと思った。大学院に入ろうと思って試験を受けた。でも、試験には落ちてしまった。また、気持ちが落ちていたある日、試験の面接官から連絡が来た。彼は試験には落ちても自分の授業を受けられると話した。彼の授業に参加してリポートを提出したが一回で終わってしまった。面接官との新しい関係ができたてからだ。
彼は大学院より結婚を誘った。自分と結婚したらずっと私の個人教授になることを約束した。今になってみたら、格好悪い誘いだが、その時の私には胸がわくわくした。39歳の私と49歳の彼は、結婚して新しい家庭を作った。試験面接官が主人になった。それから、13年になる今年まで、本は二人の結婚生活を深く結ぶものになった。
昨年から私は出版社を立てた。今月は二番目の本を出した。出版社の仕事としても、主人の本だけを出版しようとしている一人の出版社なので立派ではない。責任者なので編集から広報と流通まで、気になることはたくさんある。特に流通が大変なのだと分かってきた。私の力には無理なことを始めてしまったと思う。でも、他の出版社に原稿を渡して、本を出すより、自分の愛情が沢山入るし、だからこそ、本を出版することは私と主人の間に子どもを産んだ気持ちになる。自分の手で一から最後まで責任を持つことの、重い楽しさがある。
お姉さん、ぜひとも生きてくださいという、青年の真実の声がなかったら、その日、道に迷わなくて海辺に行けたら、それでその日、自殺に成功していたら、今日の私はない。自分が作った本を世の中に見せながら、生きてよかったと思う自分はない。
心配し過ぎて将来の不安に思い悩み、自分の価値さえ認めなかった私に、その日あった20代の青年は、初対面の私に心を込めてお願いしてくれた。
その晩から、20年近い流れた今日、ふと、温かい声のその青年を思い出した。私が息子を産んだ同じの嬉しさで、生き甲斐を味わっている瞬間、その時のことが蘇った。その人は今、40代になるだろう。彼に感謝の気持ちを伝えることは出来ないが、この作文で、その時、とても助かりしましたと話したい。
11月の作文-1ㅊ차
お姉さん、ぜひとも生きてください。
11月7日に、本が出てきった。私の一人の出版社で二番目の本だ。今回の本は社会学研究者である主人が発掘した資料をモットにして、読者が読みやすく編集したものだ。個人の自分史になる本だが元の書き手が日本統治時代の朝鮮人なので、歴史資料としての意味もある。残念ながら書き手は15年前にもう亡くなって資料だけが私たちの手に入った。日本統治時代の南洋郡島を調査するためにサイパン島とテニアン島に訪問した2013年の1月の事だった。それから今年まで5年の時間が過ぎた。何回の編集を振り替いしながら現代国語の文章に直して、今日の本になった。
1冊しかない出版社と二冊がある出版社はどこから見ても同じ、小さい会社だが二番目の本をみている私の心だけは大きく違う気がする。この本は今年一月に作った私の自分史の本とは全然違うからだ。10年間の日記を集まって作った一番目の本はなんか恥ずかしいところもあったが、二番目の本からは世の中に勇気を持って足を踏み出すと思うんだ。一人の社長であり、一人の編集者であり、一人の役員になる私の小さな会社だけど今からは出版社らしく行けると思って嬉しい。実は前の本は知り合いに配って印刷した半分はそのまま家に置いていた。だが、今回の本はインタネットのオンライン書店にも紹介されていて、新聞にも記事になっている。いよいよ、出版社も勇気を持ってもいいよ、と私は自分に聞かせている。
本をインタネット書店に上げて、買いたい人に見せられ、そこで買えることまでの仕組みが終わった先週の夜、寝ようかとしても寝られなかった。初めて、私の手で作った本が世の中に商品として追い出した達成感とその本が愛されるかどうか心配する気持ちがあった。しかしながらもなっんか完成したあとの安心感に囲まれた。昔は今日のような日が来ることを全然知らなかったことさえ思われ、嬉しい気持ちは大きくなった。昔の思い出が突然浮かんだ。
私は深夜の真っ黒な道を歩いていた。海のほうに行くところだった。
35歳の私は離婚して息子と二人きりの生活をしていた。離婚を願ったがその後のすべてはまた難しい。経済も精神も不安定した日々。保険営業職とか学習誌の訪問教師をしながらもっと安定的な職場を探した。良かったことは 学校の教師になったこと。職場の学校に入ると大学の専攻とは関係ない仕事が落ちてきたが、学校なので毎月の給料はシングルマザーに助かりになった。二人の生活の経済が少しでも安定したのだ。でも、私は幸せを感じられなかった。それより、自分の人生のいろんな悪いこと、悪い人との因縁を思い過ぎって、私の失敗した人生に悔しい気持ちばかりだった。周辺の人からの冷たい評判も気になった。職場では演技する俳優のようにニコニコする顔をしていたが、夜になってひとりになったらよく泣いた。涙のせいで寂しい気持ちになって、考えば考えるほど、私の人生は生きる価値がないと思われた。
ある日、居酒屋で知り合いとあった。その時、幼い息子は一人で家においた。二人か三人か、誰を会ったか、何の話をしたかは今は思いだせない。お酒を飲んだその場から彼らと別れて家に戻る途中,私は死ぬ決心をした事から思い出す。死ぬ方法は海で落ちることと決めた。それで息子が寝ている家に戻らなく北のほうにある海辺に行ける道を歩き始めた。私が死んだ後の息子が気になったがひとりで残る息子より、私の辛い心がもっと大きく思われた。死ぬしかない自分に怒りが出って我慢できなかった。私の人生の何が失敗か、何が問題か、死にたい本当の理由は何か、実は分からなかった。でも、死ぬなら海で死ぬとそれだけがハッキリしていた。毒薬を飲んだ人の苦しさが怖い、高いところから落ちた後、死ぬ事が出来ないまま足とか体の障害だけが残ることも面倒くさい。家の中には首を絞める場所がないし、死んだあとの私を発見する息子が気になる。で、海で泳げない私は海の中に入って、そのまま歩いてずっと前のほうに行ってからいつの間にか津波が着たら、死に安いと思った。
しかし、歩いても歩いても海辺には着けなかった。1時間以上を歩いたので、 海辺に着くはずの距離なのに海の波音すら聞こえなかった。周辺が静かな深夜、すぐ死ぬ私としては人影もいないその道が怖くなくて歩き続いた。少し時間が流れ、遠いところから光が見えた。新しい道あるかと思ったらそれでは無く、道は鉄条網の壁で行き詰っていて無くなっていた。 突然、光の下には人がいるらしい。私を気づいたか彼が急な声で止まれ,と命令した。 彼は飛行場を警備している20代の兵隊さんだった。 彼は又、急な声で誰かと伺った。彼は銃を持って鉄条網向こうの望楼の上にいた。鉄条網の壁は飛行場を囲まれていた。
私は道を探していると答えた。彼は、道がない、と答えながら何処に行くのかをまた伺った。私は、海に行きたくて海辺に行ける道を教えてくれ、とおねがいをした。彼は海辺に行ける道を教えなく、なぜ海辺に行こうとしているかを質問した。私が立ている場所と海辺の間にはジェジュ空港の広い飛行場がある事が今更分かった。そこからは海の方に行けないことも分かった。
深夜の望楼と突き当たりの道で、彼と私がいた。彼は私が危険な人ではないことをわかったようだ。気を許した彼の声はもっと明るく若かった。私は人間関係の辛い事、生き甲斐が見えないこと、結婚も仕事もうまくできない自分が失敗した人に思われること、それで死にたい、などなど、彼の質問に従って話した。私の話を聞いた後、別れるとき、彼は私にお願いをした。お姉さん、ぜひとも生きてください。
その晩、わたしは息子が寝ている部屋に戻って、翌日には仕事場の学校に行っ手、何も無かったように過ごした。その後も憂鬱の気持ちが無くなるわけではないが、死にたいとしてそんな気違い沙汰はしないようにした。恥ずかしいことはしたくない気持ちが馬鹿なことをしないようにした。
次第に私は私の人生に何が一番いいかを考えようになった。自分を生かすことならば本と勉強しかないと思った。大学院に入ろうと思って試験を受けた。でも、試験には落ちてしまった。また、気を落ちていたある日、試験の面接官から連絡が来た。彼は試験には落ちても自分の授業を受けられると話した。彼の授業に参加してリポートを提出したが一回で終わってしまった。面接官との新しい関係ができてからだ。
彼は大学院より結婚を誘った。自分と結婚したらずっと私の個人教授になることを約束した。今になってみたら、格好も無い誘いだが、その時の私には胸がわくわくした。39歳の私と49歳の彼は、結婚して新しい家庭を作った。試験面接官が主人になった。それから、13年になる今年まで、本は二人の結婚生活を深く結ぶものになった。
昨年から私は出版社を立てた。今月は二番目の本を出した。出版社の仕事としても主人の本だけを出版しようとしている一人の出版社なので立派ではない。責任者なので編集から広報と流通まで気になることは沢山に増えるし、特に流通が大変なことだと今更分かっている。私の力には無理な事を始まったと思う。でも、他の出版社に原稿を渡して、本を出すより、自分の愛情が沢山入るし、それからこそ、本を出版することは私と主人の間に生み子を産んだ気持ちになる。自分の手で一つから最後まで責任を持つことの、重い楽しさがある。
お姉さん、ぜひとも生きてくださいという、青年の真実の声が無かったら、その日、道迷わなく海辺に行けたら、それでその日、自殺に成功したら今日の私はない。自分が作った本を世の中に見せながら、生きてよかったと思う自分はない。
心配過ぎって将来を不安に見込み、自分の価値さえ認めなかった私に、その日あった20代の青年は、初面の私に心を込めてお願いしてくれた。
その晩から、20年近い流れた今日、ふと、温かい声のその青年が思い出した。私が息子を産んだ同じの嬉しさで、生き甲斐を味わっている瞬間、その時の事が受かった。その人は今、40代になろう。彼に感謝の気持ちを伝え出来ないがこの作文でその時、とても助かりしましたと話したい。
(2017년 11월 17일, 김미정 씀, 1차 원고 교정 전)
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