字夢のノート(공책)/日本語の勉強屋

終わる時間/3年間の作文練習(14)

자몽미소 2017. 9. 5. 19:00


終わる時間

 

また、やられた。毎日のように起こってしまう、困ること。

30分前、バスの停留場で主人と別れた。それから私は、友だちとの約束があって市内に行った。映画を観るためだった。主人は自分の仕事のため、研究室に行った。だが、私がバスに乗ったところ、主人は研究室の前で、自分が研究室の鍵を持っていないことに気づいたのだ。急いで、私に電話をしたが、その時私はバスの中にいた。映画館に入って席を取り、電源を消そうとするまで、全然、スマホには目を向けなかった。スマホのメッセージのやり取りで主人の状況は分かったが、今更、鍵のために戻ることが出来ない。すでに映画は始まった。映画を観た後は、昼ごはんの約束もしていた。主人は、心配しないで遊んでね、と言った。自分は図書館に行けば良いから、とも言った。だけど、自分の原稿作りのため時間が足りないのに、パソコンも持ってないのでどうしよう。宿舎にも研究室にも入れない状態で、何時間も潰さなくてはならない。

10日前のことも大変に困った。外国人用のJR PASS TICKET を買うため、八王子からわざわざ新宿駅まで行って買ったものの、旅行の当日、それを宿舎に置いて東京駅まで出てきた。北海道に行く汽車の出発時間10分前になった時、そのチケットが必ず必要で、改札口の駅員に見せなければ汽車に乗れないことを知った。旅行のホテルの予約や汽車のチケットの担当は、いつも主人がしてきた。駅員に、持ってきた新幹線座席表を見せながら、先日、全て買ったことを説明してみても、パスチケットがなくては乗れないと言われるだけだった。正しい方法は、東京から八王子の宿舎に戻って、そのチケットを持ってくることだと、駅員の説明を聞きながら思った。北海道に行く事が、宇宙に行く道みたいに遠く、不可能なことに感じた。結局、新しいチケットを買って一時間遅い新幹線に乗った。4時間も立ち放しだった。それでも、宿舎に戻るよりは良かったと思った。

最近、主人の行動に少しずつ変化が増えてきた。忘れ物や誤解や勝手な判断で、自分の間違えに気づくのが遅過ぎるのだ。その代わり、私が頭を速くまわして、するべき主人の責任を負って、細かいことまで判断して間違えないようにしたら良いのだ。それが出来たら、時間とお金を無駄にせず、お互いに助かることになるはずだ。しかし、私も忘れ物や誤解や勝手な判断で、自分が正しいと思い込んで、私が間違いに気づくときは、何か問題が起こった後になる。それで、我が家はお互いに相手の間違いを指摘するので、うるさくなる。問題がおきて、それが自分のせいだと認定するまで、口喧嘩を続ける。相手が悪くて自分は正しいと思ったら絶対に負けないが、自分の判断ミスがハッキリ判明したら、大人しく口をつぐむ。

更年期だね、老人期だね、と世の中のせりふが家の中にも入ってきた。ある日、還暦を過ぎた主人が言った。貴女はなぜ、自分より10歳も若いのに10歳上の老人と同じなのかと。それは私も分からない。まさか!夫唱婦随という家風のせいでしょうか。それとも、私は妻としても主人の研究が好きで、主人が研究をしに出かけるときは、何処でも、いつも、一緒にいたいから、頭の性能さえ主人と同じように古くなってしまったかな。主人の指摘にも構わず私は生意気に口答えする。

最近のいろんな困ったこと、お互いに起こってしまうことを見たら、我の家は二人とも終わる人間に向かう途中かもしれないと思う。今月の初め、小説<終わった人>を読んだ後、「終わる」という単語が何日も浮かんできた。勤めていた会社を定年退職したが、自分には、世の中に対しても社会に対しても会社に対しても、まだ力があるはずだと思う主人公が登場する。小説の主な軸は、自分の能力を見せたいと願う人の話だ。退職からの時間に意味は無く、働くこと自体にしか生き甲斐が無くなってしまう小説の男性は、いよいよ新しい働く場を探すことに成功し、順風に帆を揚げることになった。しかし、突然の風で船は海の中に落ち込み、前が見えない状況になってしまう。それから周辺の人たちにも困らせられるようになる。この小説には、世の中には認められないが、実の自分は偉い人間だと思う人の心理が描かれていた。それから本当に失敗するまでのプロセスが、細かいエピソードと重ねあわせてあって、とても面白かった。

人間には必ず終わりがあるが、それを認めたくない、終わったことについて認定したくない。仕事に対しては退職、生きることに対しては死。必ず訪れるそのことに、ちゃんと準備ができる人は少ないし、できないことだらけだ。世の中の沢山の事故と不幸を見ながらも、自分とは関係なく他人のことだと思うのだ。小説の主人公は、お金と家族関係で大きな損失を受け、全てを失ったから、自分が終わったことをまともに受け止めていなかったことに気づいた。それは何故か。自分が偉いと思っても、それが世の中から認められなかったからだ。自分が欲しかった地位までいけなくて、会社から捨てられたと思ったからだ。主人公は自分の考え方にある傲慢に気がついた。それで次の道を開くために故郷に帰るところで小説は終わった。

人間は、発達段階によって人としての役割を変えればいい。体とか精神の発達の遅いのが原因で、それを障害者と呼ばれることもある。職場でも、一人の人間としても、上る時期があれば、下がる時期もある。年齢とともに社会の中の役割も変化していく。歳を取ることは、体や能力は落ちていく道を辿ることだ。だから、今からは山頂からの下り途中だと知ったうえで生きるべきだろう。でも、歳を取っても心は若いままで、終わることなんて想像もしたくない、というのが普通の人の気持ちだろう。終わりを考えるのは、何か哀しく感じられる。限りある人の人生だとハッキリ知っていても、自分が下り状態になったとは、なかなか認めたくない。主人の事は別にして、私自身が今から先にも私の人生に夢があり、それを実現できると思っていた。毎日が忘れ物だらけの頭の私でも、勉強してその夢が実現できると思っていた。そうしたら、4年前のカボチャを思い出した。

4年前の2013年、主人と私は創価大学のゲストハウスに1年間住むことを許して貰った。前年から私は、面積が一坪ほどでもあったらトマトやキュウリなど植物を育てたいと思っていた。その春、八王子に来ることになったので、私は母から貰ったカボチャの種を持ってきた。それを大学周辺の空き地に蒔いて、自然の中で育つのを観られることを願った。4月になって私はその種を、空き地が見つかるたびに蒔いた。その結果、5月になったらカボチャの小さい葉っぱが見え、少しずつ大きくなった。散歩のときはペットボトルに水を入れてカボチャに注いだ。だが、その楽しみもすぐ出来なくなってしまった。もともとその地に根がついた植物が強く育ち、いつの間にかカボチャは枯れながら死んでしまった。失望したが仕方ないことだった。

それから、夏が来てまた秋がきた。涼しい風を感じながら村の道を散歩した時だった。忘れていたカボチャが見えた。その春、私が村の空き地に蒔いたカボチャの種が茎を差し伸ばし、ぐんぐんと育っている。勇ましいカボチャに、心から感謝の気持ちで一杯だった。毎日の散歩で、それを見に行った。ある日、花が咲いたときは私が産んだ生命に見えた。ある日、カボチャの黄色い花が増えた。その中にいくつか小さい実も結んでいた。私の喜びは、言える言葉がないくらいだった。でも、心配はあった。9月の気温は下がっていて、すぐ寒さがくるはずだ。なのに、この実が大きくなるまで元気に生き延びることができるだろうか。

ある日、その空き地は、持ち主か管理者かが入ったようだ。夕方になって私達がカボチャを見に行ったときは、空き地はすでに綺麗になっていた。夏の間に大きくなった雑草を除いた後だった。空き地の隅で、わずかに生き伸びている最中に切られちゃったカボチャ。その小さな実は、徐々に枯れる途中だった。

青春時代を人に翻弄され、大学さえ途中でやめさせられた。時には保険募集人の仕事までした。20代の全てがとんでもないことになって、両親と村の人達、友だちからも私は失敗した人として扱われた。30代には辛うじて大学は卒業したものの、母子家庭の苦しみや周囲からの偏見はそのままだった。私は自分の20代からの人生が、いわば季節の春を失ったものと思ってきた。青春らしく生きられなくなったと思い込み、なくなってしまった青春の時間を悔しがった。それでももっと自分らしいものを探し続け、大学院を目指した。

大学院試験の会場で主人と逢った。そこには勉強の機会では無く、男性が私を待っていたのだ。でも、幸運がきたようだった。研究者と結婚したからだ。それから、私は胸の中で、もう一回の機会を願うようになった。もし機会があったら私も研究者になりたい。それで50歳が過ぎて中年になってからは留学の夢を抱いて、前向きに精一杯、生きてきた。そんな私の人生模様に、4年前のそのカボチャが重なって思い出される。わずかに目を覚ましたが、時が遅すぎて結果が出なくて終わったカボチャ。

終わるという言葉が気になったのは小説のせいではない。実は来週には、私たちもこちらの生活を終えて韓国に戻らなければならないことになったからだ。でも、私はここの生活がずっと続いて欲しいとお願いしている。出来ないことを欲しがっている。世の中の全てに終わる時があるとわかっているものの、私には、それを認めず、私が諦めるまで続けたい、と言う欲張りの心持ちがある。

この地点で、考えてみた。私はなぜ、日本留学を目指しているのか。その理由の一つ目は、初めての日本での生活経験が良かったからだ。主人が創価大学に交換教授としてきた2006年、八王子は私にとっては感じた事がなかった心地よいところだった。その経験から、私は私の国と故郷ではなく日本での生活で自由感を味わった。それ以来、日本に来るたびに安定感と自由感で心が落ち着いた。日本に来たら、私は過去の辛い記憶まで飛ばされた。それが何よりも良かった。

二つ目は、勉強以外には余り興味が続かないからである。勉強ということには、本を読むこと、主人の原稿を読んで討論すること、日常の生活の中で何か思うことがあるとそれを書いてみることが含まれる。研究者になりたいと思っても、今更、それは無理だし、勉強だけでも十分だと思っていた。でも、勉強はお金を沢山使いながら日本留学をしなくてもできることだ。私の家の中でも出来ることだ。

私は今のところ、私の立っている場を点検している。そこから分かるのは私の本音。それは勉強より心地よいところを探していることだ。その場所を大学と決めて、そこから日本の留学の話をしているのだ。頭が固くなることも年取ることも完全に無視している。息子が結婚をしてからは、孫が出来ることについても知らないふりをしている。主人が2年半後からは年金生活に入るのに、老後の準備さえしていなかったことにも注意していないのだ。老後のお金の問題は考えたくないとしながら、関心があったのは、心安らかなところを探すことだった。その場所でもお金は必ず必要なのに、そこまでは考えたくない。それなら、私は責任を負ってなくて、欲しいものだけを思っている欲張りでしかない。韓国に戻ろうとしたら日本に未練だらけだ。でも、終わることを認めたくない私の本音を再発見した。いつか、私が息を引き取る時もそうだろう。其処には行きたくない、ここにずっと生き延びたいと、呟いている私はとても寂しい。寂しいけれど、終わりは終わり。来週まで、心と目に沢山の日本をためておこう。