字夢のノート(공책)/日本語の勉強屋

お姉さん、ぜひとも生きてください。3年間の作文練習(16)

자몽미소 2017. 11. 17. 19:40

수정( 2017년 11월 28일 화요일)



11月の作文


お姉さん、ぜひとも生きてください。


 


11に、できあがった私一人出版社二番目今回会学研究者である主人発掘した資料もとにして、みやすく編集したものだ。個人自分史なる本だが手が日本統治時代の朝鮮人なので、歴史資料としての意味もある。残念ながら書き手は15年前もうくなって資料だけがたちのった。日本統治時代南洋郡島調するためにサイパンとテニアン訪問した2013の1ことだった。それから今年まで時間ぎた何回編集繰り返しながら現代国語の文章にして、今回本になった


しかない出版社二冊ある出版社どこからてもじ、さい会社だが二番目の本を見ているだけはきくがする。このは今年一月った自分史本とは全然違うからだ。10年間の日記を集て作った一番目の本はなんかずかしいところもあったが、二番目の本からはってそうえた一人社長であり、一人編集者であり、一人役員だけの私のさな会社だけからは出版社らしくなれるってしい。いにって印刷した残りの半分はそのままいていた。だが、今回はインタネットのオンライン書店にも紹介されていて、新聞にも記事になっている。いよいよ、出版社自信っていいよ、と自分言いかせている。


 


をインタネット書店げて、いたいせられ、そこでえることまでの仕組みがわった先週の夜、ようかとしてもられなかった。めて、私の手で作った本商品として売りした達成感とその本がされるかどうか心配するちがあった。それと同時に、完成したあとの安心感包まれた今日のようなることなど全然予想できなかったので、しいちはさらに大きくなった。昔のが突然浮かんだ。


は深夜のいていた。のほうにくところだった。


35離婚して息子二人きりの生活をしていた。離婚ったがそののすべてはまたしい。経済精神不安定日々。険営とか学習誌訪問教師をしながらもっと安定的な職場を探した。かったことは 学校教師になったこと。職場の学校に入るととは関係仕事を回されたが、学校なので給料はシングルマザー補助が付いた二人生活経済安定したのだ。でも、せを感じられなかった。それより、自分人生のいろんないこと、とのぎて、失敗した人生やむちばかりだった。周辺の人からの冷たい評判も気になった。職場では演技する俳優のようにニコニコをしてたが、になってひとりになるとよく泣いた。涙のせいでしいちになって、えばえるほど、人生きる価値がないとた。


ある居酒屋いと会った。その時、息子一人においてきた。二人三人か、ったか、をしたかはせない。お酒を飲んだそのから彼らとれて途中決心をしたことを思い出す。方法ちることとめた。それで息子ているずに、にある向かうめた。私が死んだ後の息子のことになったがひとりで息子より、の方がもっときくた。ぬしかない自分りがわいて我慢できなかった。私の人生の失敗か、問題か、にたい本当の理由か、実はからなかった。でも、死ぬなら海で死ぬとそれだけがハッキリしていたんだしさがい、いところからちたないままとか障害だけがることも面倒くさい。にはめる場所がないし、死んだあとの私を発見する息子になる。で、げないって、そのままいてずっとってからいつのにか津波たら、やすいった。


しかし、いてもいても辺にけなかった。1時間以上いたのでに着くはずの距離なのに海の波音すら聞こえなかった。周辺が静かな深夜、すぐ死ぬ私としては人影もいないその道怖くなくて歩き続た。少し時間が流れ、遠いところからえた。新しい道あるかと思ったらそではく、鉄条網の止まりになっていた。 突然、光の下に人見えた。私づいた彼が急に「止まれと命令した。 彼は飛行場を警備している20代の兵隊さんだった。 彼は又、「誰だ!」と叫んだ。彼は銃を持って鉄条網向こうの望の上にいた。鉄条網の壁は飛行場を囲んでいた。


私は道を探していると答えた。彼は、道ない、と答えながら何に行くのかまた聞いた。私は、海に行きたくて海辺に行ける道を教えてくれ、とお願いした。彼は海辺に行ける道を教えずになぜ海辺に行こうとしているかを質問した。私が立ている場所と海辺の間にはチェジュ空港の広い飛行場があることを知ったそして、そこからは海の方に行けないことも分かった。


深夜の望と突きたりの道で、彼と私がいた。彼は私が危な人ではないことをわかったようだ。を許した彼の声は、先ほどよりもっと明るく若かった。私は人間関係の辛いこと、生き甲斐が見えないこと、結婚も仕事もうまくできない自分が失敗した人に思ること、それで死にたい、などなど、彼の質問にって話した。私の話を聞いた後、別れるとき、彼は私にお願いをした。お姉さん、ぜひとも生きてください。


その、わたしは息子がている部屋にって、翌日には仕事場の学校に行っ、何もかったように過ごした。その後も憂鬱持ちがくなるわけではなかったが、死にたいなどと違い沙汰はしないようにした。恥ずかしいことはしたくないという気持ちが馬鹿なことをしないようにさせた


次第に私は私の人生に何が一番いいかを考えようになった。自分を活かすならば本と勉強しかないと思った。大学院に入ろうと思って試を受けた。でも、には落ちてしまった。また、気持ち落ちていたある日、試験の面接官から連絡が来た。彼は試には落ちても自分の授業を受けられると話した。彼の授業に参加してリポートを提出したが一回で終わってしまった。面接官との新しい関係ができからだ。


彼は大学院より結婚を誘った。自分と結婚したらずっと私の個人教授になることを約束した。今になってみたら、格好悪い誘いだが、その時の私には胸がわくわくした。39の私と49の彼は、結婚して新しい家庭を作った。試験面接官が主人になった。それから、13年になる今年まで、本は二人の結婚生活を深く結ぶものになった。


昨年から私は出版社を立てた。今月は二番目の本を出した。出版社の仕事としても主人の本だけを出版しようとしている一人の出版社なので立派ではない。責任者なので編集から広報と流通までになることはたくさんある。特に流通が大のだと分かってきた私の力には無理なことを始めてしまったと思う。でも、他の出版社に原稿を渡して、本を出すより、自分の愛情が沢山入るし、だからこそ、本を出版することは私と主人の間に子どもんだ持ちになる。自分の手で一から最後まで責任を持つことの、重いしさがある。


お姉さん、ぜひとも生きてくださいという、青年の真実の声がかったら、その日、道迷わなく海辺に行けたら、それでその日、自殺に成功していたら今日の私はない。自分が作った本を世の中に見せながら、生きてよかったと思う自分はない。


心配過ぎて将来不安に思い悩み、自分の価値さえ認めなかった私に、その日あった20代の青年は、初面の私に心を込めてお願いしてくれた。


その晩から、20年近い流れた今日、ふと、温かい声のその青年思い出した。私が息子を産んだ同じの嬉しさで、生き甲斐を味わっている瞬間、その時のことが蘇った。その人は今、40代になるだろう。彼に感謝の気持ちを伝えることは出来ないがこの作文でその時、とても助かりしましたと話したい。






11月の作文-1ㅊ차


お姉さん、ぜひとも生きてください。

 

11に、てきった。一人出版社二番目今回会学研究者である主人発掘した資料モットにして、みやすく編集したものだ。個人自分史になる本だが元手が日本統治時代の朝鮮人なので、歴史資料としての意味もある。残念ながら書き手は15年前もうくなって資料だけがたちのった。日本統治時代南洋郡島調するためにサイパンとテニアン訪問した2013の1だった。それから今年まで時間ぎた何回編集いしながら現代国語の文章にして、今日本になった

しかない出版社二冊がある出版社はどこからてもじ、さい会社だが二番目の本をみているだけはきくがする。このは今年一月った自分史本とは全然違うからだ。10年間の日記を集まって作った一番目の本はなんかずかしいところもあったが、二番目の本からはってすとうんだ。一人社長であり、一人編集者であり、一人役員になる私のさな会社だけどからは出版社らしくけるとってしい。いにって印刷した半分はそのままいていた。だが、今回はインタネットのオンライン書店にも紹介されていて、新聞にも記事になっている。いよいよ、出版社ってもいいよ、と自分かせている。

 

をインタネット書店げて、いたいせられ、そこでえることまでの仕組みがわった先週の夜、ようかとしてもられなかった。めて、私の手で作った本が商品としてした達成感とその本がされるかどうか心配するちがあった。しかしながらもなっんか完成したあとの安心感まれた。今日のようなることを全然知らなかったことさえ思われ、しいちは大きくなった。昔のが突然浮かんだ。

は深夜のいていた。のほうにくところだった。

35離婚して息子二人きりの生活をしていた。離婚ったがそののすべてはまたしい。経済精神不安定した日々。険営とか学習誌訪問教師をしながらもっと安定的な職場を探した。かったことは 学校教師になったこと。職場の学校に入るととは関係仕事ちてきたが、学校なので給料はシングルマザーにかりになった。二人生活経済しでも安定したのだ。でも、せを感じられなかった。それより、自分人生のいろんないこと、とのぎって、失敗した人生しいちばかりだった。周辺の人からの冷たい評判も気になった。職場では演技する俳優のようにニコニコするをしてたが、になってひとりになったらよく泣いた。涙のせいでしいちになって、えばえるほど、人生きる価値がないとわれた。

ある居酒屋いとあった。その時、息子一人においた。二人三人か、ったか、をしたかはいだせない。お酒を飲んだそのから彼らとれて途中決心をした事から思い出す。方法ちることとめた。それで息子ているらなくのほうにあるけるめた。私が死んだ後の息子になったがひとりで息子より、がもっときくわれた。ぬしかない自分りがって我慢できなかった。私の人生の失敗か、問題か、にたい本当の理由か、実はからなかった。でも、死ぬなら海で死ぬとそれだけがハッキリしていたんだしさがい、いところからちたないままとか障害だけがることも面倒くさい。にはめる場所がないし、死んだあとの私を発見する息子になる。で、げないって、そのままいてずっとのほうにってからいつのにか津波たら、いとった。

しかし、いてもいても辺にけなかった。1時間以上をいたので、に着くはずの距離なのに海の波音すら聞こえなかった。周辺が静かな深夜、すぐ死ぬ私としては人影もいないその道が怖くなくて歩き続いた。少し時間が流れ、遠いところからえた。新しい道あるかと思ったらそれでは無く、鉄条網のっていてくなっていた。 突然、光の下には人がいるらしい。私をづいたか彼が急な声で止まれ,と命令した。 彼は飛行場を警備している20代の兵隊さんだった。 彼は又、急な声で誰かと伺った。彼は銃を持って鉄条網向こうの望の上にいた。鉄条網の壁は飛行場を囲まれていた。

私は道を探していると答えた。彼は、道がない、と答えながら何に行くのかをまた伺った。私は、海に行きたくて海辺に行ける道を教えてくれ、とおねがいをした。彼は海辺に行ける道を教えなく、なぜ海辺に行こうとしているかを質問した。私が立ている場所と海辺の間にはジェジュ空港の広い飛行場がある事が今更分かった。そこからは海の方に行けないことも分かった。

深夜の望と突きたりの道で、彼と私がいた。彼は私が危な人ではないことをわかったようだ。を許した彼の声はもっと明るく若かった。私は人間関係の辛い事、生き甲斐が見えないこと、結婚も仕事もうまくできない自分が失敗した人に思われること、それで死にたい、などなど、彼の質問にって話した。私の話を聞いた後、別れるとき、彼は私にお願いをした。お姉さん、ぜひとも生きてください。

その、わたしは息子がている部屋にって、翌日には仕事場の学校に行っ手、何も無かったように過ごした。その後も憂鬱の持ちが無くなるわけではないが、死にたいとしてそんな違い沙汰はしないようにした。恥ずかしいことはしたくない気持ちが馬鹿なことをしないようにした。

次第に私は私の人生に何が一番いいかを考えようになった。自分を生かすことならば本と勉強しかないと思った。大学院に入ろうと思って試を受けた。でも、には落ちてしまった。また、気を落ちていたある日、試験の面接官から連絡が来た。彼は試には落ちても自分の授業を受けられると話した。彼の授業に参加してリポートを提出したが一回で終わってしまった。面接官との新しい関係ができてからだ。

彼は大学院より結婚を誘った。自分と結婚したらずっと私の個人教授になることを約束した。今になってみたら、格好も無い誘いだが、その時の私には胸がわくわくした。39の私と49の彼は、結婚して新しい家庭を作った。試験面接官が主人になった。それから、13年になる今年まで、本は二人の結婚生活を深く結ぶものになった。

昨年から私は出版社を立てた。今月は二番目の本を出した。出版社の仕事としても主人の本だけを出版しようとしている一人の出版社なので立派ではない。責任者なので編集から広報と流通までになることは沢山にえるし、特に流通が大なことだと今更分かっている。私の力には無理な事を始まったと思う。でも、他の出版社に原稿を渡して、本を出すより、自分の愛情が沢山入るし、それからこそ、本を出版することは私と主人の間に生み子をんだ持ちになる。自分の手で一つから最後まで責任を持つことの、重いしさがある。

お姉さん、ぜひとも生きてくださいという、青年の真実の声が無かったら、その日、道迷わなく海辺に行けたら、それでその日、自殺に成功したら今日の私はない。自分が作った本を世の中に見せながら、生きてよかったと思う自分はない。

心配過ぎって将来を不安に見込み、自分の価値さえ認めなかった私に、その日あった20代の青年は、初面の私に心を込めてお願いしてくれた。

その晩から、20年近い流れた今日、ふと、温かい声のその青年が思い出した。私が息子を産んだ同じの嬉しさで、生き甲斐を味わっている瞬間、その時の事が受かった。その人は今、40代になろう。彼に感謝の気持ちを伝え出来ないがこの作文でその時、とても助かりしましたと話したい。

(2017년 11월 17일, 김미정 씀, 1차 원고 교정 전)