字夢のノート(공책)/日本語の勉強屋

マーシャル島の椰子の木/3年間の作文練習(17)

자몽미소 2017. 12. 22. 15:19



수정: 2018년 1월 2일, 일본의 친구로부터

マーシャル椰子


マーシャルという珍しい名前の島に主人の研究テーマがあり、其処に調査旅行で行くことになった10月の事。 島に行く道は長かった。マーシャル諸島の首都であるマジュロに行く時は、韓国から日本の成田空港とグアム空港を経由で二日間、帰る時は同じ道で三日の時間を費やして家に戻ることができた。私たちが住んでいる済州島から直行便がないことと、費用が少しでも節約できる飛行機を選んだので、移動にも沢山の時間が掛った。


でも、空を飛ぶ飛行機の中から外を見るのがとても良かった。空と海の色が区別できないくらい青くて静かな太平洋。その海と空の間には真白な雲が浮かんでいて、それを見ているうちに生き物としての自分の存在感さえ忘れてしまった。飛行機の中にいる私が現実の人間だとは思えないくらいだった。天国があったらこのような風景ではないだろうか。太平洋の空から見る地球は、初めて発見した新世界だった。遠いところには、大きな建物がそびえ立つ都市のような雲のかたまりが見えた。見ているうちに私の体が飛行機のなかにいることすら忘れてしまった。今から行くところ、住んでいたところさえ忘れ、その空の雲のなかに私の居場所があって、それが永遠に続くような気持ちだった。


飛行機は、チュク島、ポナペ島、コスライ島、米軍基地のクワジェリン島を経由して、マジュロ空港に着いた。既にそこは夜だった。東京時間より3時間早い。飛行機から降りると温暖多湿な空気とともに南国の甘い匂いがする。来る前、本やネットで調べながら予想したが、太平洋の島々は何処も島それぞれの特徴があるらしい。空気の匂いさえサイパン島やヤップ島やパラオ島とは違った。広い太平洋の沢山の島。其処の生き物と植物が多様なので、島々の違いが発生するのも当然かもしれない。


マーシャル諸島の首都であるマジュロ環礁は細長い島で、島の真中に一本道の国道が通っていた。国道の両側には所どころに家があり店があった。でも、海は目の前に迫っていて、土地の幅が5メートルの場所もあるのでとても狭い。平均海抜2メートルにもならない高さの島々が、埋め立て工事をして細く続いている。それが一つの国の首都であることは私にとっては不思議だった。国の首都であっても賑やかな都会ではなく、田舎の村ほどもないところで、少しはっとした。マジュロ全体を車で走っても、掛る時間は1時間ほど。それでもこの小さい島はマーシャル共和国の首都なので、マーシャル諸島の他の島より人口も多いし、ホテル、学校と病院など、生活施設や福祉センターなども備えている。


かつての日本の南洋群島時代には、マーシャル諸島の中心地はマジュロではなく、ヤルット島だった。日本の政府の南洋庁の支社がヤルットにあったため、日本人の人口も多かったそうだ。第二次世界大戦後はアメリカ政府によって今のマジュロに首都が移された。戦争は終わったけど、自分の土地は自分のもとに戻らなかった。アメリカから完全な独立は出来なかったこの島の国。今までもアメリカ軍のため、諸島の一部分を米国領として奪われているのが、この国なのだ。空で見た太平洋の島々は綺麗な姿で平和そうに見えたのに、実際のことを知ると寂しくて哀しくなる。


それぞれ小さい島だけど、マーシャル諸島の歴史は長くて深かった。何か、競争する集団の中に、静かで真面目な人がいた時に受けるような、差別に似た土地の運命を感じた。それは帝国主義の影響ではないだろうか。この島々が被害を被った歴史には、スペイン、イギリス、ドイツ、日本、それからアメリカなど、帝国の欲張りがあった。国と国の張り合いから、この静かで綺麗な島々は傷跡(傷だらけ)の土地になってしまったと、私は思った。


帝国主義の国の中で、一番悪い国はどこだろう。戦争の前の日本はこの島々から経済的利益を得た。南洋貿易会社はココナツ椰子をこの島から得て、日本の利益を支えた。前のスペインやらドイツも、関心は島の資源だった。


しかし、第二次世界大戦で勝ったアメリカは、日本を追い出してから軍事施設と戦争兵器を設置した。その中で、一番怖かったものがビキニ島で行った水素爆弾実験だった。世界中からの大きな反対と批判をうけながらもアメリカはそれを何年間も、何回も行った。ビキニと周辺の島の原住民は居場所を追い出されて、故郷を失った。アメリカは彼らにお金をあげて慰めたが、生まれ育ち、先祖からの土地をお金で交換できるはずがない。彼らは今も自分の故郷に戻れない。その実験によって土地が放射能汚染地になってしまって、アメリカの許可なくしては見に行くことさえ出来なくなった。アメリカが島民に渡したお金は、諸島の彼方此方を迷いながら生活費に消えていった。土地を失ったビキニ島の人々は、アメリカから貰ったお金でアメリカから輸入された食料品を買って生きているのだ。


アメリカはそのビキニ島以外にも、軍事力のために色々なものを設置していた。特に、マーシャル諸島の真ん中にあるクワジェリン島は、マーシャルが独立した後も米国領の土地として残った。私たちもマジュロを訪問した時、クワジェリン島では飛行機から降りられなくて、飛行機の中に座っていた。米軍兵隊か、関係者以外はその島に入ることが難しい。特別な理由がなかったら立ち入り禁止で、その許可を得ることも難しいところだった。


世界大戦が終わってから70年が経ったが、世界中で今も戦争の準備をしていた。何時、戦争が勃発しても不思議なことではない。アメリカは口では平和を主張しているが、実はアメリカの兵器産業のために、戦争が必要な国になった。だから武器の開発競争のため、北朝鮮問題やら、イスラエルとパレスチナやら、世界中に不安を扇動している。そしてアメリカ政府は、平和のために新しい武器を準備するから、それを買うべきだと、各国の政治家に圧力をかけている。


1957年、創価学会の戸田先生はビキニ島の水爆実験をやめなさい、と宣言した。大きな、恐ろしい武器を作っている兵器産業者が、どうしてそんな声を受け容れたのだろうか。はじめは無視していたが、世界の平和を求める声の大きさにかなわなかったようだ。以後、アメリカは水爆実験を、やめることになった。色々な問題は残ったが、いまはそこで実験はしてないのだ。人間の声は武器に比べて弱くても、当たり前のことには人々が集まり、力になる。


マジュロの一本道の両側には大きなココナッツ椰子が見事に立ている。珊瑚島の土地は、土に栄養がなくて農業らしい農業ができないそうだ。食用植物の数もあまりないので、島の生活には困ることも沢山あるだろうと思った。しかし、この島にはパンノキがあり、タコノキもあり、椰子の実もある。島の人々はそれとともに生きてきた。そして、その植物の中で、一番面白くてビックリしたものがココナッツ椰子だった。この木は、珊瑚島に一番ある植物だそうだ。珊瑚島の土地は栄養が無くても、椰子には一番の環境になるという。その木の実のおかげで、島の人々は生き延びている。


マーシャル諸島の長い歴史のなかで、椰子はこの島と島の人々とを良い運命で結んだようだ。戦争の時間もあったし、世界権力を取ろうとする国があっても、この島で一番の良い縁は、確かに椰子の木だろう。弱くても生き延びる力ある生命にあふれている。島の人々と椰子の木は似ていると思った。





수정전 작문


マーシャル椰子

マーシャルという珍しい名前の島に主人の研究テーマがあり、其処に調査旅行で行くことになった10月の事。 島に行く道は長かった。マーシャル諸島の首都であるマジュロに行く時は韓国から日本の成田空港とグアム空港を経由で二日間、帰る時は同じ道で三日の時間を潰してから家に戻られた。住んでいる済州島から直港飛行機がないことと、費用が少しでも節約できる飛行機を選んだので、移動にも沢山の時間が掛った。

でも、空中を飛ぶ飛行機のなかで外を見るのがとても良かった。空と海の色が区別できないくらい青くて静かな太平洋。その海と空の間には真白な雲が浮かんでいてそれを見るうちに生き物としての自分の存在感さえ忘れてしまった。飛行機の中にいる私が現実の人間だとは思えないくらいだった。天国があったらこのような風景ではないか。太平洋の空から見る地球は初めて発見した新世界だった。遠いところからは大きな建物の都会のような雲のたまりが見せた。見る見るうちに私の体が飛行機のなかにいることすら忘れちゃった。今から行くところ、住んでいたところさえ忘れ、その空の雲のなかに私の居場所がいてそれが永遠に続けるような気持ちだった。

飛行機はまた、チュく島、ポナペ島、コスライ島、米軍基地のクワジェリン島を経由して、マジュロ空港に着いた。既にそこは夜になった。東京時間より3時間早い。飛行機から降りると温暖多湿な空気とともに南国の甘い匂いがする。来る前、本やネートで調べながら予想したが、太平洋の島々は何処でも島なりの特徴があるらしい。空気の匂いさえサイパン島やヤップ島やパラオ島と違った。広い太平洋の沢山の島。其処の生き物と植物が多様なので島々の違いの発生も同然かもしれない。

マーシャル諸島の首都であるマジュロ環礁は島の両方が海で島の真中の一本の道が国道だった。国道の両方では所どころに家があり店があった。でも、土地の幅さが5メートルの場所もあるのでとても狭い、平均海抜2メートルにもならない高さの島々が埋め立って工事をして細く続いている。それが一つの国の首都であることは私にとっては不思議だった。国の首都であっても賑やかな都会地じゃなく、田舎の村位も無いところで、少しははっとした。車で走ってもマジュロ全体に掛る時間は1時間ほど。それともこの小さい島はマシャル共和国の首都なのでマシャル諸島の他の島より人口も多いし、ホテル、学校と病院など、生活施設や福祉センタなども備えている。

かつての日本の南洋群島時代にはマーシャル者る諸島の中心地がマジュロではなく、ヤルット島だった。日本の政府の南洋庁の支社がヤルットにあったため日本人の人口も数多かったそうだ。第二次世界大戦後はアメリカ政府によって今のマジュロに首都が移された。戦争が終わったけど、自分の土は自分のもとに戻らなかった。アメリカから完全な独立は出来なかったこの島の国。今までもアメリカの軍のため、諸島の一部分を米国領として奪われているこの国なのだ。空で見た太平洋の島々は綺麗な姿で平和のところと見えるんだが、実のことを知るうちに寂しくて哀しい。

それそれ小さい島だけど、マーシャル諸島の歴史は長くて深かった。何か、競争する集団で静かで真面目な人が居る時の受けるべきの差別みたいな、土地の運命を感じられた。それは帝国主義の影響からじゃないか。この島々が被害を被った歴史にはスペイン、イギリス、ドイツ、日本、それからアメリカなど帝国欲張りがあった。国と国の張り合いからこの静かで綺麗な島々は傷跡の土地になってしまったと、私は思った。

帝国主義の国の中一番悪い国は何だろう。戦争の前の日本はこの島々から経済の利益をもらった。南洋貿易会社はココナツ椰子をこの島から得て日本の国に利益を支えた。前のスペインやらドイツも関心は島の資源だった。

しかし、第二世界戦争で勝ったアメリカは日本を追い出してから又の軍事施設と戦争武器を設置した。その中、一番怖かったものがビキニ島に行った水素爆弾実験。世界中からの大きな反対と批判をうけながらもアメリカはそれを何年間、何回も行った。それから、そのビキニと周辺の島の原住民は居場所を追い出されて、故郷を失った。アメリカは彼らにお金を挙げながら慰めたが、生まれ育ち、先祖からの土地がお金で交換できるものか。彼らは今も自分の故郷に戻られない。その実験によって土地が放射能汚染地になってしまって、アメリカの許可なくては見に行き事さえ出来なく事になった。アメリカからの主民渡しただお金は諸島の彼方此方を迷いながら生活費で潰していた。土地が失ったビキニ島の人々はアメリカから貰ったお金でアメリカから輸入された食料品を買って生きるんだ。

アメリカはそのビキニ島以外にも軍事力のための色んな事を設置していた。特に、クワジェリン島はマーシャル諸島の真ん中にあるが、そこはマシャルが独立した後も米国領の土地になった。それで、私たちもマジュロの往来の時、飛行機から降りられなく、飛行機の中に座っていた。米軍兵隊か、関係者以外にはその島に入る事が厳しい、特別な理由がなかったら立ち入り禁止処で、許可を得ることも難しいところだった。

世界戦争が終わってから70年が経たが、世界中は今も戦争準備をしていた。何時、戦争が勃発しても不思議なことではない。アメリカは口からは平和を主張しているが、実はアメリカの兵器産業のため、戦争が必要な国になった。それで、武器の競争のため、北朝鮮問題やら、イスラエルとパレスタインやら、世界中に不安を扇動していた。その中、アメリカ政府は平和のためなら新しい武器を準備する、それを買うべきことだと、それぞれ国の政治家に圧力をかけている。

1957年、創価学会の戸田先生はビキニ島の水爆実験をやめなさい、と宣言した。大きな、怖い武器を作っている武器産業者にそんな声がどうして受け容れたか。はじめは無視したはずが、世界の平和の声は合わせたら力をもつことにし多用だ。以後、アメリカの水爆実験は、やめることになった。色んな問題は残ったが、いまはそこで実験はしてないのだ。人間の声は武器に比べて弱くても当たり前のことには人々が集まるので力ができる。

マジュロの 一本道の両方には大きなココナッツ椰子が見事に立ている。珊瑚島の土地は地の栄養がなくて農業らしい農業ができないそうだ。食用植物の数も余りないので、島の生活は困ることも沢山と思われた。けど、この島にはパンノキがあり、タコノキもあり、椰子の実もあるので島の人々はそれとともに生きてきた。で、その植物から一番面白くてビックリしたものがココナッツ椰子だった。この木は、珊瑚島に一番当たる植物だそうだ。珊瑚島の土地は栄養が無くても、椰子には一番の環境になるんだそうだ。その木の実から島の人々は生き延びている。

マーシャル諸島の長い歴史のなか、椰子はこの島と島の人々と良い運命を結ばれたようだ。戦争の時間もあったし、世界権力を取ろうとする国があってもこの島に一番良い縁は確かに椰子の木だろう。弱くても力ある生命として、島の人々と椰子の木は似ていると思った。


2017년 12월 22일. 김미정 1차 작문.