字夢のノート(공책)/日本語の勉強屋

蛇が好きな人-3년간,일본어 작문 연습(18번째/36회)

자몽미소 2018. 1. 30. 16:47

2018년 1월 일본어 작문

蛇が好きな人


幼い頃の私の家には、たびたび蛇が出てきた。田舎の藁ぶき屋根に住んでいた20年間、私の家には蛇以外でも、ネズミやら昆虫をいつも見た。昼ごろにご飯を食べる時、天井から蛇が落ちることもあり、台所に入ったら、食べ物を探すために来たネズミが、私の顔をみてビックリした顔をすることもあった。お互いにビックリして、お互い嫌な存在だった。その当時は家でも畑でも道でも、そんな生き物が溢れていた。私が幼い頃の70年代は、近代化が進んでいても今のように農薬を使わなかったので、温暖多湿な火山島であるチェジュ島では、蛇をあちらこちらで見ても当たり前だった。

ある日、父が道を歩いている時、知らずに蛇を踏んでしまって、蛇に噛まれた。毒蛇だったので大変だった。村のおじさんたちが集まって民間治療をしてくれた後、父の足は治ったが、その後、長い時間が経っても父の足には傷跡が残った。私も20代ごろ同じ経験をした。秋の夜、裸足でスリッパを履いて、お祖母さんの家に行く途中、道を横断している蛇を知らずに踏んでしまったのだ。なにかに刺されたと感じて、それが何だったか確認のために後ろを見たが、日暮れなのでハッキリ見えなかった。その瞬間、村に入ってくる自動車があって、車のライトに照らされた蛇が見えた。私の足に当たったものが蛇だと分かった瞬間、 私の体は蛇に絡まれたように感じ、ビックリしてそのまま全然、動けなかった。

私は病院に運ばれ、蛇の毒を抜く治療を受けた。その晩、家に帰ったら母が心配した表情で、遅い夕飯を準備してくれた。私は妹が寝ている部屋で、ご飯を食べた。私の食事の音が気になったのか、妹が目を覚ましてきて私をじっと見た。私は、妹が蛇に噛まれて危なかった私を心配して起きてきて、私を見てくれているんだと思った。時間が経って大人になった時、妹がその時のことを話した。自分はその時、姉が人ではなくて大きな蛇が座ってご飯を食べているんだと思ったと言った。姉に見えても、実は蛇が人の顔をして家に入ってきたと思ったと。そんな昔話は、大人からずっと聞かされてきた。人に嫌われた存在でも、その生き物は人が住んでいるところに来て、人々と一緒に暮らすようになったのだ。私は、蛇やらネズミやらがまったく現れない家に住みたかった。私は田舎も、そうした生き物がいるかぎり嫌だったので 綺麗な都会への憧れが大きくなった。

80年代になって私の故郷の田舎も現代化が進み、90年代には田舎の屋根も藁ぶきは見えなくなった。2000年代になったらチェジュの農村では、蛇やネズミが減った。昆虫は外地から入って来たので、農家では沢山の農薬をつかって畑を管理した。畑に農薬が沢山残っていたので、蛇はもっと見なくなった。野菜作物の畑でも蜜柑の畑でも、蛇の居場所がなくなった。その島のある村には昔からの伝統信仰で、蛇に祈る風習もあった。蛇の伝説で有名な自然洞窟もある。でも、生き物としての蛇はなくなっている。人の住む環境で邪魔だから,島の蛇がなくなったことは嬉しいことだろうか、蛇を嫌ってきた私には、今となっては答えられない。その土地に生きていた生き物として蛇とネズミが減っていることが、どんな結果になるのかも私としては分からない。

 

鹿児島に来て今日で一ヶ月になった。鹿児島大学で研究をしている主人の研究テーマは、南洋郡島に住んだ人々。鹿児島大学の研究室には、世界の島々に興味がある研究者が集まっている。私は研究者ではないけれど、その仲間たちとの遊び時間には参加している。先週は研究室の先生たちに誘われて居酒屋にいった。その日は先生たちが大学院学生たちを連れて、南の島に調査のため行くことになっていて、夜間に出発する船に乗る前の飲み会があり、その場に招待してもらったのだ。大学院生たちは大体生物に興味があって大学での専攻も生き物だった。その中の一人の学生に、何時から生物に興味が出てきたかを聞いた。その学生の答えに驚いた。彼は蛇がとても綺麗だし可愛いから学生寮で蛇を置いていて、毎週ネズミを買って蛇のえさにしているのだと話した。蛇はメスより雄の方が飼いやすいとも話してくれた。妊娠などのため、その期間になったら蛇に餌を挙げるうえで気を配ることが色々あるんだそうだ。逆にオスは定期的に餌のネズミをあげるだけで、別に気使うことがないようだ。ガラスの中にいる蛇は、お腹が減ったら自分の頭をガラスのフタまで上げて、飼い主に餌の催促をするんだそうだ。彼はその蛇の仕組み(仕草)がとても可愛らしいと感じていた。

 

私の因縁深い人の中に、なかなか許せない人がいた。その人を思い出すたびに私は、彼を蛇みたいな人間だと呟いた。自分の利益のために周辺の人を利用して反省もしないし、自分の悪いことを認定もしない、逆に自分の悪いことを指摘されたらその話をする人にさらに悪いことをしてしまう悪質な人物、今でもそんな生き方で生きている彼。私は彼を思い出すとき、蛇が私の体に上がるような気持ちになり、悪い気分で体が震える。キリストの聖教にも、蛇は神様からの呪いを受けた物として表現されている。だから蛇みたいな彼は、何時かは罰を受けるのが当たり前だと思うのだ。しかし、彼は今まで神様からなんの罰も受けずに生きている。それを見て私は、世の中には神様の罰とか呪いなどないのだろうと思ってしまう。

また、キリストの教えのように神様からの呪いが蛇に当たったとしても、蛇自身は分かる訳がないだろう。生まれたそのまま生きるしかない蛇としては、ただただ本能で生きている存在でしかないだろう。人には怖く見えても蛇同士には嫌なことがないし、時と場所によって、蛇は嫌な生き物ではなく自然の中に受け容れられる。我々の文化とは違う地域にいたら、別の物語が生まれるだろう。たまには可愛がる人との関係があり、人のところにも住み込んで生きている蛇、私には良くないけれど別の人には可愛いく見える生命でもあるのだ。

 

嫌な気持ち、違和感、呪い、悪い相手に対して生まれる自分の感情は何だろう。相手が悪いから、そんな感情が出てくると思うのは簡単だ。でも、生命を持っている生き物に対して、私の思いは余りにも勝手なことがある。世の中のことについて自分を合理化しようとすることだ。悪い出来事に対して、私が悪くないことを主張したくて、相手を睨む。逆に、良い出来事に対しては、私の役割が良かったと評価したくて相手の存在を小さくしてしまう。そういう心の動きがあるのだ。

蛇が好きなその学生の話を聞くうちに、彼の研究者としての道は、どんどん良くなるだろうと思った。なぜなら彼は、生命の貴重さを偏見なく受け容れられる人間からだ。私の息子の年齢の若者から、大きな教えを受けた。もともと蛇から人まで、生命に優劣はないのだ。