(1차수정)
平和の種を蒔く、未来の木を植える事。
日本から本が届いた。友達に送って貰ったその本には沖縄戦争を生き抜いた14人の体験があった。創価学会沖縄青年部が編集したものだった。本を作った理由は余り知られることのない沖縄戦の真実を若い世代に知らせるためだった。
外国人として私も沖縄戦のことをあまり知らなかった 数回の沖縄の旅行と歴史本を読んだくらいで、あくまでも外国の旅行者の視線で沖縄を思っていた。然し、本をよみながら、70年前の戦争の状態をなぜか最近のことのように感じた。沖縄戦で生き抜いた人々の体験は辛かったが、戦争への反対と平和の希望が生き生きと伝えられた
今年の2016年1月から2月の間、沖縄で過ごしたことがあった。沖縄戦を研究のテーマにしている主人が連れて行くようになったからだ。ある日、沖縄の創価学会の招待で、恩納村の沖縄研修道場を訪ねるようになった。かつてその場所は米軍の核ミサイルの発射台があったと聞いたが 今はそんな事は想像が出来なかった。
研修道場の上には青い空が広がって、白い雲が流れ、建物の上には素晴らしいブロンズが海に向かって立っていた。研修道場は綺麗な花と緑に囲まれ,歌を歌っているらしい鳥の声が麗しかった。建物の前には世界平和碑があった。平和と言う言葉は周辺の風景そのものだっと思われた。
案内して貰って建物の中に入ったとたん、今までの明るい雰囲気が一変した。米軍のミサイルが展示されていてびっくりした。それでこの場所まで来る時、ところどころ見えた米軍基地を思い出した。嫌いな軍飛行機やら、基地正門の兵隊さんやら、胸を張ってこの島を占拠していた軍隊、しかしこの島の自然とは全然合わない。
展示された米軍のミサイルは、戦争準備をしていた証拠だった。展示物はこの場所がどうして米軍から創価学会の元にきたのかについての説明と記録の写真だった。軍基地から平和の祈念場所への作業は容易ではない事だったと分かった。それで展示物を見ながらその素晴らしい変化を良かったと思った。
然し、その安心感は直ぐ怒りに変わってしまった。展示室のそばにある別のところで展示された絵を見たからだ。絵画家の絵ではなかった。逆に仕様も無い絵だっと言えるくらい、絵を初めてかいた幼い子供の絵みたいに、絵の技術なんか無いものだった。それでも、私は、その絵の前で息が止まってしまった。
四角の紙に表現したのは,人間としては絶対に経験したくない事だった。絵の描き主としては、ぜひ、忘れさせてくださいと祈りたいかもしれない凄惨なことが描かれていた。島の地は米軍の攻撃を受け、火の海になってしまった。家も道も畑も灰色の廃墟になっていた。爆弾破片で首を切られたまま、歩いている人があって、死んだお母さんの乳房を捜して口を当てている赤ん坊もいた。島の空は血の色ように真っ赤だった。海は米軍の大きな船がいっぱいで囲まれ真っ黒だった。人々の顔は恐ろしさで硬くなった。今も明日も何が起こるか知らない島の人が考える事は死ぬ事だけで,集まった人々は集団自決をしようとした。敵が四方から追いつめられ、逃げる処が何も無く、厳しい洞窟の生活をしなければならなかった。島の人々は、様々な事で米軍からも日本軍からも追い詰められた。
70年のあと、絵の展示をただ見るだけでさえも私の体は打ち震えた。その記憶を胸の底に隠していた人々の心が浮かんでとても可愛そうで堪らなかった。戦争での怒りは世の中の哀しさに変わってきた。人間が同じ人間にこのように出来るのか。良い世の中を欲しい神様があったら、戦争が起きて、弱い人々がこんなに被害を受けるなんかあるはず無いのだと思われた。なんの理由をつけても戦争は絶対ダメだと思ったが、その分、観念だけの戦争反対をしている私の弱さが寂しかった。大きな悪い権力について抗えない、自分が悲しかった。
それでも、私が見た戦争記憶の絵がどうして出来たのか、誰がその作業をしてたのか、その経緯も分かってきた。戦争体験した人々に記憶を呼び起こし、思い出された事を絵で表現させることの難しさも十分に理解できた。そうなので戦争で生き抜いた人々の人生の辛さは、生き生き伝えられて、ぜひ戦争がないようにと平和への祈りに変化していった。
展示を見た後、池田先生の記念館を観覧した。そのうち、前の寂しさが少しずつ消して心の力が戻っていると感じた。先生の人間革命の執筆が戦争地であった沖縄で始まった事が何よりも意義深いと感じた。先生の沖縄への愛情は沖縄の青年達に使命を教えてくれたのだ。それは平和の種を蒔く事になったと思われた。
世界平和とか戦争反対運動は偉い人物だけの出来る事だと誤解した自分がいた。政治的な発言と行為はごく庶民である私、個人としての私には無理であると思ったのだ。また、平和の考えは持っているけれど、考えだけは世界平和には役に立たないと思ってきた。世界と世の中の重大な事には個人の心だけではあんまりにも力にならないと失望してきた。それなのに、研修道場で出会った絵は私の間違えを教えてくれた。
沖縄戦の時期を過ごした人々には深くて治らない哀しさがあった。死ぬまでも忘れられない悲しさだった。その戦争体験を話す事は傷跡と破れた心に再び苦痛を与えたはずだ。それで心の底からの辛さを出す事は大きな勇気が必要だったと思われた。その勇気こそが世界の平和を念願している人々に繋がっていて戦争に反対している大きな声になった。始まりは小さな種だけど、人々の悲しい心からどんどん伸びて、元気な未来の力を育てているのだ。絵を描きながら心を連帯して、集まった心を未来の世代に伝え、世の中に平和の木を植えた事になった。
友達から貰った日本語の本を読みながら、戦争の体験を残してくれた人々の心を思っている。その体験が役に立つために私の出来ることは何なのか。今も世界のあちこちでは戦争を準備している事がお知らせている。それで70年前の沖縄の戦争記憶を私の国、私の知り合いに伝える事は今更、重要で必要な事ではないか。戦争は絶対、起きてはならないと思っている人たちに沖縄の平和運動も紹介したい。戦争の遺跡を平和の祈る場所に変化させた人々の連帯も紹介したい。私はもっと勉強して日本語の韓国語への翻訳を私の使命にしようと思った。今の私の力はあまりにも小さいけれど、どんどん育って行って平和の連帯の種になろうと決心して勇気を出してみる。
(수정전)
平和の種を蒔く、未来の木を植える事。
日本から本が届いた。友達に送って貰ったその本には沖縄戦争を生き抜いた14人の体験があった。創価学会沖縄青年部が編集したものだった。本を作った理由は余り知られることのない沖縄戦の真実を若い世代に知らせるためだった。
外国人として私も沖縄戦のことをあまり知らなかった。何回の沖縄の旅行と歴史本を読んだくらいで、あくまでも外国の旅行者の視線で沖縄を思っていた。然し、本をよみながら、70年前の戦争の状態がなぜか最近のことのように感じた。沖縄戦で生き抜いた人々の体験は辛かったが、戦争への反対と平和の希望が生き生き伝えられた
今年の2016年1月から2月の間に沖縄で過ごしたことがあった。沖縄戦を研究のテマにしている主人に連れて行くようになったからだ。ある日、沖縄の創価学会の招待で、恩納村の沖縄研修道場を訪ねるようになった。かつてその場所は米軍の核ミサイルの発射台があったと聞いたが 今はそんな事には想像が出来なかった。
研修道場の上には青い空が広がって、白い雲が流れ、建物の上には素晴らしいブロンズが海を向かって立っていた。研修道場は綺麗な花と緑に囲まれ,歌を歌っているらしい鳥の声が麗しかった。建物の前には世界平和碑があった。平和と言う言葉は周辺の風景の自体だっと思われた。
案内を貰って建物の中に入ったとたん、今までの明るい雰囲気が一変した。米軍のミサイルが展示されていてびっくりした。それでこの場所まで来る時、ところどころ見えた米軍基地が思い出した。好かない軍飛行機やら、基地正門の兵隊さんやら、胸を張ってこの島を占拠していた軍隊、しかしこの島の自然とは全然合わない。
展示された米軍のミサイルは、戦争準備をしていた証拠だった。展示物はこの場所がどうして米軍から創価学会の元にきたのかについての説明と記録の写真だった。軍基地から平和の祈念場所への作業は容易ではない事だっと分かった。それで展示物を見ながらその素晴らしい変化が良かったと思った。
然し、その安心感を直ぐ怒りに変わってしまった。展示室のそばにある別のところで展示された絵を見たからだ。絵画家の絵ではなかった。逆に仕様も無い絵だっと言えるくらい、絵を始めにした幼い子供の絵みたいに、絵の技術なんか無いものだった。それでも、私は、その絵の前で息を止まってしまった。
四角の紙に表現したのは,人間としては絶対に経験したくない事だった。絵の描き主としては、ぜひ、忘らせてくださいと祈りしたかもしらない凄惨なことが描かれていた。島の地は米軍の攻撃を受け、火の海になってしまった。家も道も畑も灰色の廃墟になっていた。爆弾破片で首を切られたまま、歩いている人があって、死んだお母さんの乳房を捜して口を当てっている赤ん坊もいた。島の空は血の色ように真っ赤だった。海は米軍の大きな船画いっぱいで囲まれ真っ黒だった。人々の顔は恐ろしさで硬くなった。今も明日も何が起こるか知らない島の人が考える事なら死ぬ事だけで,集まった人々は集団自決をしようとした。敵が四面を追いつく、逃げる処が何も無く、厳しい洞窟の生活をしなければならなかった。島の人々は、様々な事で米軍からも日本軍からも押し付けられた。
70年のあと、絵の展示をただ見るさえも私の体は打ち震えた。その記憶を胸の底に隠れていた人々の心が浮かんでとても可愛そうで堪らなかった。戦争での怒りは世の中の哀しさに変わってきた。人間が同じ人間にこのようにしても出来るのか。良い世の中を欲しい神様があったら、戦争が起きて、弱い人々がこんなに被害を受けるなんかあるはず無いのだと思われた。なんの意味をつけても戦争は絶対ダメだと思ったが、その分、考えだけの戦争反対をしている私の弱さが寂しかった。大きな悪い権力について抗えない、自分が悲しかった。
それでも、私が見た戦争記憶の絵がどうして出来たのか、誰がその作業をしてたのか、その経緯も分かってきた。戦争体験した人々に記憶を浮かばれ、思い出された事を絵で表現させることの難しさも十分に理解できた。そうなので戦争で生き抜いた人々の人生の辛さは、生き生き伝えられて、ぜひ戦争がない平和への祈りに変化してあった。
展示を見た後、池田先生の記念館を観覧するようになった。そのうち、前の寂しさが少しずつ消して心の力が戻られていると感じた。先生の人間革命の執筆が戦争地であった沖縄で始まった事が何よりも意味を伝えられた。先生の沖縄への愛情は沖縄の青年達に使命を教えてくれたのだ。それは平和の種を蒔く事になったと思われた。
世界平和とか戦争反対運動は偉い人物だけの出来る事だっと誤解した自分がいた。政治的な発言と行為はごくの庶民にある私、個人としての私には無理であると思ったのだ。また、平和の考えは持っているけれど、考えだけは世界平和には役に立ちないと思ってきた。世界と世の中の慎重な事には個人の心だけではあんまりにも力にならないと失望してきた。それなのに、研修道場に出会った絵は私の間違えを教えてくれた。
沖縄戦の時期を過ごした人々には深くて治らない哀しさがあった。死ぬまでも忘れられない悲しさだった。その戦争体験を話す事は傷跡と破れた心に又の苦痛をあげたはずだ。それで心底からの辛さを出した事は大きな勇気で可能だったと思われた。その勇気こそが世界の平和を念願している人々に繋がっていて戦争を反対している大きな声になった。始まりは小さな種だけど、人々の悲しい心からどんどん伸びて、元気な未来の力を育ちしているのだ。絵を描きながら心を連帯して、集まった心を未来の世代に伝え、世の中に平和の木を植えた事になった。
友達から貰った日本語の本を読みながら、戦争の体験をしてくれた人々の心を思っている。その体験が役に立つ事に私の出来ることは何なのか。今も世界のあちこちでは戦争を準備している事がお知らせている。それで70年前の沖縄の戦争記憶を私の国、私の知り合いに伝える事は今更、重要で必要な事じゃないか。戦争は是対、起きてはならないと思っている人たちに沖縄の平和運動も紹介したい。戦争の遺跡を平和の祈る場所に変化させた人々の連帯も紹介したい。私はもっと勉強しながら日本語の韓国語への翻訳を私の使命で持とうと思った。今の私の実力はあんまりにも小さいけれど、どんどん育って行って平和の連帯の種になろうと決心して勇気を出してみる。
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