2017년 3월 3일-원고수정/ 김미정 쓰고 고침
ヤップ島の生き様
一週間の予定でヤップ島に行ってきた。ヤップはミクロネシア連邦の一つの州だ。其処は一年中、夏なので、 冬の国から夏の国への旅行になった。帰ってみたら私達二人の肌は夏休みの海水浴場に行ってきた時と同じく黒くなってしまった。友達からは海岸のリゾートでゆっくり遊んできたと言われたが、仕事としての調査旅行だった。遊びか仕事かどちらでも南洋の 太陽は 暑くて強い、毎日のように肌の日焼けをして帰った。
主人は ミクロネシアと北マリアナ、マシャル諸島の太平洋の島を研究テーマにしている。そこは100年前、第一次世界大戦後ドイツから日本に委任統治された後、日本人に南洋郡島と呼ばれた。太平洋戦争以前までは南方の天国とも宣伝されていた。実、其処は天然資源の宝庫なので島々には海外から開拓者と移民者など沢山の人々が集まった。第二世界戦争が起きてからは日本軍も集まってきた。南洋のパラダイスは戦争地になってしまって人々の生命が失われた。天国の島々は見る影も無い凄惨な所になった。 太平洋の島では土地と人間の運命が栄えたり衰えたりした。主人は特に南洋時代に其処に移民した人々の暮らしと太平洋戦争の有様を調査している。 サイパン、テニアンにはサトウキビの大農場があった。移民者たちの中には朝鮮人と沖縄人、台湾人の労働者もいた。戦争が終わった後、生き残って帰国できた人々は少なかった。
今回はヤップに行くことにした。 日本の統治時代にヤップはコプラの産地であり、燐鉱石とナマコ、鰹節も沢山採れた島だった。それで南洋庁の支庁も建てられた。日本人町ができ、 人が増えることによって病院、 日本人の子供だけが通う小学校ができた。コプラ商売をする会社があって日本内地にコプラを送った。コプラは当時、世の中でいろんな産物に利用できるものだったので価値があった。日本人町には料理屋など店が開けられて内地の生活が其処でも出来た。豊かな生活をしているし一等国民になった日本人は島の人の労働を利用した。島の子供に教育が必要だと思ったので島民向けの公学校も立てられた。そこで島の子供は今までは無かった学校教育を受けることになった。
ヤップは昔から石貨の島で知られている。美しい海中を楽しめる場所でも知られていて、現在では世界3位に位置するくらい、ヤップはダイバたちに有名な所だ。どころで ヤップに行く前から海のダイビングならしなくてもよいと言ってきた。海の生き物ならば写真で見るだけてもいいじゃないかと。私は島の生まれだが海での泳ぐのを怖かったからだ。興味があるところは歴史と文化、人の暮らしなので、我々は島の旅行社に頼んでヤップ島の伝統と生き方を習える観光コースを選択した。旅行会社の代表は日本人で27年間、ヤップ暮らしをした人だった。それで日本人だけどヤップ人らしく島の事情を知り抜いていた。一日3時間から5時間間で島の彼方此方をまわり、いろんなことを見て、聞いた。
ヤップは本島と異島をあわせて人口は12,000名くらいで、そのうち7000人くらいが本島に住んでいる。その本島の本通りである、コロニアは昔からチャモロ湾と呼ばれていて、現在は州政府施設があって、病院、消防署、郵便局、ホテルや店などが並び建っている。所どころ、日本時代の施設であった建物の土台が見えて、歴史の時間が浮かんだ。16世紀にスペインに発見され、19世紀に入るとドイツ、20世紀には日本、戦争のあとはアメリカの殖民地になって、外国の力に巻き込まれた時期があった。そしてもこの島には今も100個くらいの村が昔の形で残っていて、人々は伝統文化を保存しながら相変わらず住んでいる。コロニアという中心部だけは都会の雰囲気のホテルや店があったが村々は一目では見えない緑の森の中にあって本当の田舎だ。女性は大体タロイモ畑で働き、男性は海で魚捕りをして、食べ物を調達している。食料品を自然から取るので余りお金も要らないし、店の物はアメリカからの輸入品なので好きではない。
島中は自動車道路があるが住民の村に入るためには車から降りて歩くべきだった。村と村の間は石畳の狭い道があるから其処は自動車が走れない。石畳は男女別の道があることもヤップの伝統の一つだ。お互いに入場禁止。男女の別別の場所は道やら集会所やら沢山だ。 ヤップ島では大昔から、石畳の道がいたるところに張り巡らされ、島のネットワークを形作っていた。何時からその石畳が作られ、利用されたかは知らないが、雨が沢山降る島で、石畳は人の移動と荷物の運搬に便利だと思った。
昔からのを残しているそんな道の中には、尾根を横切って島の東西を結ぶものもある。 島の多様な動植物を観察するには、このような道のウォーキングがとても良かった。緑色の森の中で深呼吸をしたら私の体も森の緑に入れる気がした。村の中の石畳と森の中の土道を歩く時は文明から遠くはなれ、自然の一員としての自分があった。
ある日、案内をしてくれる人と村の男子の家という伝統なところを訪ねることにした。朝の雨で木の葉っぱには水玉ががキラキラしていて、円満な人と会うときの安心感と明るさがが森の間に広がっていた。甘くて豊かな空気が感じられた。石畳の両方にある溝には音楽のような水流れが緑の森に染みこんだ。村人の姿はまだ見えないので人の暮らしが出来る場所かと思えるほど静かだった。道は綺麗に掃除が出来ていて、もしかしたら私たちの訪問を知って、どこかに隠れて我たちを見ているのではないかとも思った。人は我たち3人だけ、他は石畳の道と緑の木と鳴いている鳥と水の音、空からそよ風がきて私の顔をなでる。人影が見えないが人の手係りはあるはずの綺麗なところで歓迎の心が伝わってきた。
こんな風景と雰囲気は何時か会った事があったと、いきなり思った。記憶喪失の状態から戻る時がそうなるかなあ。 村の入り口で今でも残っている原始の生き様をそっと覗いたときに記憶の中で、幼い頃の私の故郷が重なる。電気が無い時の、まだ、上水道も下水道も無い時の、観光地で有名になる前の我の島が私の目の前に会った。今は無くなってしまった我らの故郷がヤップに会った。
外国人やら、他の村の人でも客として村を訪ねるときはその島の伝統的な礼法があった。道のそばの木から葉っぱを切りとって手で持って、道の脇で一例にして歩く。村の人に自分が武器など持っていないとのお知らせで、だだの訪問者だとの標が木の葉っぱだった。我たちは案内人をそのまま真似しながら村の中に入った。石貨が並んで立ててある公民館を見てから海辺に立てられた伝統の男性の家も見に行った。男性の家は、今も伝統のままに女性は入り禁止だが、私は外国人だから許された。男性の家があるので、女性だけが入れる家もあったそうだ。然し、太平洋戦争が終わって、アメリカの影響が受けてからは女性の家はなくなったそうだ。ヤップにも何と変化はあるはずだ。よい方面でもあるし、良くない方面でも変化は進んでいる。だが、その変化の速度があまりも遅くて私には安心感を与えながら幼い頃の故郷を思い出されるのだ。そして、私は私が住んでいる済州島の事を心配した。速過ぎる変化で我らが島は自分の生き様を失って病気になったかもしれないと思った。
住民が反対しても立てられた海軍基地がある島、島を守ろうとして平和運動する住民を北朝鮮側だ非難しながら抑圧する政府を持つ島。経済発展のだめだと主張しながら島の彼方此方を掘り返して、自然と合わない建物造りを止めない島が我の故郷だ。前の40年の間 済州島 は本当の性格から急に変わって、可笑しくなってしまった人らしかった。変化の速度が速かったせいだ。島の先の進路もそうだろうか。沢山の人々が世界から来るうちに観光地になったことは嬉しいけど、自分の土地と伝統文化をどうして守るかにはおよばなかったと思う。経済と安保上の利益があるので賛成して軍の基地まで造って、それが島と国家の平和を支えることだと信じていた。可笑しいな信念だ。
村の石畳を抜けて海辺に立った。海の様々な青い色が空と触れて水平線の届く地点が見えない。風が吹いている涼しい木の下に一人の男性がいた。海のお守りさんだ。ヤップは小さな島だが自分の価値を分かって何を守るべきかを知る人たちが住んでいる。小さい島だからこそ、失った後の回復が難しいことも分かっている。持っていることを守りながらゆっくり成長して、世界の急な変化に振り回されずに向き合おうとしていると思われた。島の生き様は自然と供に住むこと。そんな考えから今も長い時間が作ってくれた石畳を綺麗な自然の中で保存して、人々もその自然中で生きているのだ思った。文明の発展より、生き物としての成長を選んだのだろう。
-2017년 3월 3일 수정하여 업로드.
수정전-1차 원고
2017년 2월 24일 작문
ヤップ島の行き様
一週間の予定でヤップ島に行ってきた。ヤップはミクロネシア連邦の一つの州だ。其処は一年中の夏なので、 冬の国から夏の国への旅行になった。帰ってみたら私達二人の肌は夏休みの海水浴場に行ってきた時と同じに黒くなってしまった。友達からは海岸のリゾトでゆっくり遊びをしたなと言われたが、仕事として調査旅行だった。遊びか仕事かどちらでも南洋の 太陽は 暑くて強い、毎日のように肌の日焼けをして帰った。
主人は ミクロネシアと北マリアナ、マシャル諸島の太平洋の島を研究テーマにしている。そこは100年前、第一次世界大戦後ドイツから日本に委任統治された以後 日本人に南洋郡島と呼ばれた。太平洋戦争以前までは南方の天国とも宣伝されてた。実、其処は天然資源の宝庫なので島々には海外から開拓者と移民者など沢山の人々が集まった。第二世界戦争が起きてからは日本軍も集まってきた。南洋のパラダイスは戦争地になってしまって人々の生命が失われた。天国の島々は見る影も無い凄惨な所になった。 太平洋の島には土地と人間の運命が栄えたり衰えたりした。主人は特に南洋時代に其処に移民した人々の暮らしと太平洋戦争の有様を調査している。 サイパン、テニアンにはサトウキビの大農場があった。移民者たちの中には朝鮮人と沖縄人、台湾人の労働者もいた。戦争が終わって後、生き残り帰られた人々は少なかった。
今回はヤップに行くことにした。 日本の統治時代にヤップはコプラの産地であり、燐鉱石とナマコ、鰹節も沢山出てきた島だった。それで南洋庁の支庁も建てられた。日本人町ができ、 人が増えることによって病院、 日本人の子供だけが通う小学校ができた。コプラ商売をする会社があって日本内地にコプラを送った。コプラは同時、世の中で色んな産物に利用できるものだったので価値があった。日本人町には料理屋など店が開けられて内地の生活が其処でも出来た。豊かな生活をしているし一等国民になった日本人は島の人の労働を利用した。島の子供に教育が必要としたと思ったので彼らが通った、島民専用の公学校も立てられた。そこで島の子供は今までは無かった学校教育を受けることになった。
ヤップは昔から石貨の島で知られている。美しい海中を楽しめる場所でも知られていて、現在には世界3位に位置するくらい、ヤップはダイバたちに有名な所だ。どころで ヤップに行く前から海のダイビングならしなくてもよいと言っていた。海の生き物ならば写真だけで見てもいいじゃないかと。島の生まれだが海の泳げを怖がるくせがあるからだ。興味があるところは歴史と文化、人の暮らしなので、我々は島の旅行社に頼んでヤップ島の伝統と行き方を習われる観光コースを選択した。旅行会社の代表は日本人で27年間をヤップ暮らしをした人だった。それで日本人だけどヤップ人らしく島の事情に知り抜いた。一日3時間から5時間間で島の彼方此方をまわり、いろんなことを見て、聞いた。
アップは本島と異島をあわせて人口は12,000名くらいで、その中7000人くらいが本島に住んでいる。その本島の本通である、コロニアは昔からチャモロ湾と呼ばれていて、現在は州政府施設があって、病院、消防署、郵便局、ホテルと店などが並びあった。所どころ、日本時代の施設であった建物の土台が見えて、歴史の時間が浮かんだ。16世紀にスペインに発見され、19世紀に入るとドイツ、20世紀には日本、戦争あとはアメリカの殖民地になって、外国の力に巻き込まれた時期があった。そしてもこの島には今も100個くらいの村が昔の形で残っていて、人々は伝統文化を保存しながら相変わらず住んでいる。コロニアという中心部だけは都会の雰囲気のホテルや店があったが村々は一目では見えない緑の森の中にあって本当の田舎だ。女性は大体タロイモ畑で働き、男性は海で魚捕りをして、食べ物を調達している。食料品を自然から取るので余りお金も要らないし、店の物はアメリカからの輸入品なので好くではない。
島中は自動車道路があるが主民の村に入るためには車から降りて歩くべきだった。村の村の間は石畳の狭い道があるから其処には自動車が走れない。石畳は男女別の道があることもヤップの伝統の一つだ。お互いに入場禁止。男女の別別の場所は道やら集会所やら沢山だ。 ヤップ島では大昔から、石畳の道がいたるところに張り巡らされ、島のネットワークを形作っていた。何時かからその石畳が作られ、利用したかは知らないが、雨が沢山降っている島で石畳は人の移動と荷物の運搬に便利だと思った。
昔からの昔の形を残っているそんな道の中には、尾根を横切って島の東西を結ぶものもある。 島の多様な動植物を観察するには、このような道のウォーキングも良かった。村の中の石畳と森の中の土道を歩く時は文明から遠くはなれ、自然の一員としての自分があった。
ある日、案内をしてくれる人と村の男子の家という伝統なところに訪ねることにした。朝の雨で木の葉っぱには水玉ががキラキラしていて、円満な人を会うときの安心感と明るさがが森の間に広がっていた。甘くて豊かな空気が感じられた。石畳の両方にある溝には音楽のような水流れが緑の森に染みこんだ。村の人はまだ見えないので人の暮らしが出来る場所かとも思えるくらい静かだった。道は綺麗に掃除が出来て、もしかしたら私たちの訪問を知っていて、とこかで隠して我らを見ることではないかとも思った。人は我らの3人だけ、他は石畳の道と緑の木と鳴いている鳥と水の音、空からそよ風がきて私の顔をなでる。人影が見えないが人の手係りはあるはずの綺麗なところで歓迎の心を感じ受けた。
こんな風景と雰囲気は何時か会った事があったと、いきなり思った。記憶喪失の状態から戻る時がそうなるかなあ。 村の入り口で今でも残っている原始の生き様をそっと覗いたうちに記憶の中で、幼い頃の私の故郷が重なる。電気が無い時の、まだ、上水道とも下水道も無い時の、観光地で有名になる前の我の島が私の目の前に着いていた。今は無くなってしまった我らの故郷がヤップに会った。
外国人やら、他の村の人でも客として村を訪ねるときはその島の伝統的な礼法があった。道のそばの木から葉っぱを切りとって手で持って、道の脇で一例にして歩く。村の人に自分が武器など持っていないとのお知らせで、だだの訪問者だとの標が木の葉っぱだった。我らは案内人をそのまま真似しながら村の中に入った。石貨が並んで立ててある公民館を見てから海辺に立てられた伝統の男性の家も見に行った。男性の家は、今も伝統ままに女性は入り禁止だが、私は外国人だから許された。男性の家があるので、女性だけが入られる家もあったそうだ。然し、太平陽戦争が終わって、アメリカの影響が着てからは女性家はなくなったそうだ。ヤップにも何とかの変化はあるはずだ。よい方面でもあるし、良くない方面でも変化は進んでいる。だが、その変化の速度があんまりも遅くて我には安心感を支えながら幼い頃の故郷を思い出されるのだ。そして、私は私が住んでいるジェジュ島の事が心配した。速過ぎる変化で我の島は自分の生き様を失って病気になったかもしれないと思った。
主民が反対しても立てられた海軍基地がある島、島を守ろうとして平和運動する主民を北朝鮮側だっと非難しながら抑圧する政府を持つ島。経済発展のだめだと主張してから島の彼方此方を掘り返して、自然と合わない建物造りを止まらない島が我の故郷だ。前の40年の間ジェジュう島は本当の性格から急に変わって、可笑しくなってしまった人らしかった。変化の速度が速かったせいだ。島の先の進路もそうだろうか。沢山の人々が世界から来るうちに観光地になったことは嬉しいけど、自分の土地と伝統文化をどうして守るかには考えがなかったと思う。経済に利益があるので賛成して軍の基地まで受けて、それが島と国家に平和を支えることだと信じていた。可笑しいな信念だ。
村の石畳を抜け来て海辺に立てた。海の様々な青い色が空と触れて水平線の届く地点が見えない。風が吹いている涼しい木の下に一人の男性がいた。海のお守りさんだ。ヤップは小さな島だが自分の価値を分かって何を守るべきかを思う人たちが住んでいる。小さい島からこそ、失った後の回復が難しいことも分かっている。持っていることを守りながらゆっくり成長して、世界の急な変化に振り回されなく向き合おうとしていたと思われた。島の生き様は自然との供に住むこと。そんな考えがあってから今も長い時間が作ってくれた石畳を綺麗な自然の中で保存して、人たちもその自然中で生きていると思った。文明の発展より、生き物としての成長を選んだことだろう。
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