先生と言うこと。
最近は毎日、若い青年から電話が掛ってきていた。其のたび彼は私のいる場所と私が今、何をしているかを聞く。其の二つの彼の変わらない質問に私もいつものように答える。私は外にいるとか、家で家事をしているとか、他の仕事中だと答えるが、彼は何か不満気味の声を出す。それで、いつものように話す。会いたいのにって。
彼との電話が繋がったのは昨年の夏の頃だった。編集の仕事の資料を背負って家に帰る午後、ふらふら道を歩いていたら、遠い所から私の名前が聞こえる気がした。道路で私の名前が呼ばれる事なんかあるわけがないので無視してまた足を踏み出したら、今度はとても大きな声で久しぶりに聞く言葉が舞い込んだ。先生!、先生!と。首を回して声か飛んでくるところを探したら、車が走る向こう側に満面の微笑みの彼が立っていた。十五年前、私の仕事場である学校の学生だった彼、彼の顔は知っているけれど名前がすぐに思いだせないまま、私は足を止めて彼を待ってた。彼が道を渡って私の方に来た。私たちはその時、持っていたスマートフォンで電話番号を交換した。彼の毎日の電話はその時からだった。
午後6時頃、彼は自分の作業場から家に戻る。電話は大体、其の時間に掛けてきた。時々は朝早く来た時もあった。休みの日だから、彼は今日は作業場に行かない事を私に伝えてきた。そしていつものような質問をする。何をしているの、何処にいるのって。私もいつものような答えをする。又、電話をしてくれと言ったら彼は喜びの挨拶を返す。彼のいる所は私の住んでいる住宅から歩いて20分くらいの距離である。彼が実家ではなく其の処に引越しした事を知ったのは昨年の夏の時だった。私は彼が卒業する前、其の学校から退職したので彼が引越したことも全然知らなかった。なぜ自分の家から移動したのか。どんな事があったのか。
私が彼と初めて会った時、彼は中学生だった。先生として働いたが私は彼の担任じゃないので彼の家庭の細かい事情については知らなかった。学校の通学バスで学校に来て、放課後にはそのバスで家に帰る彼の姿をたまに見るほどだった。けれでも彼は私の担任したクラスに顔を出す事が多かった。時によっては授業中の自分のクラスからこっそり抜け出して、私の担任した子供の世話を手伝いたいとか、私のクラスで勉強したいとかを言いながら彼の担任を困らせた。いつもニコニコ顔の彼は養護学校の学生の中では元気な人だった。自分で歩ける、自分で食事が出来る、それで学校の運動部にも所属していて、障害学生運動大会にもよく参加した。だが、文字を理解するなど学習能力の方では余り出来なかった。其の問題があって彼は養護学校の学生になったはずだ。
先週も彼は電話の向こうで先生に会いたいと話した。それで私は彼の帰る時間に村のカフェで彼と逢うことにした。興奮した顔で甘い飲み物が好きな彼。今年、29歳になった青年は体だけが大きくなった子供みたいに無邪気だった。今回は彼にいろいろなことを聴いた。職場でしている作業、通っている方法などなど。彼の答えはとても簡単すぎるし聞きにくい発音だ。彼女がいるかと聞いたら、彼は照れるように彼女もあるカフェで働いていると答えながら結婚できないとはっきり言った。なぜそうなのと聞いたら神父さんが彼らに結婚は絶対駄目だと教えたと言う。
彼の住む処は15年前、カトリック司祭によって立てられた心身障害者向けの施設だ。施設の名前は<愛徳の家>。実家から離れてその施設に任せる彼らに、生活の世話はしてくれるが、性的な付き合いの結果が施設側の責任になるのだろう。自立ができない大人の障害者に結婚生活は無理だろう。それが大きな理由で、青春の愛は絶対、禁止されるのだと分かった。でも性的な付き合いを禁止されるこの若い青年は可愛そうな気がした。
其の施設が立てられるようになったのは其の神父様の特別な経験談が有名だ。神父様は体が良くなくて仕事を休んで長い旅行をしていた。他人より早く罹った病気に神様を怒る気持ちもあった旅だった。何時か死んでしまうのは人間の運命だけど、死ぬ順番が自分のことになってからは信仰に疑心も盛り上がっていった。神父様はインドの彼方此方を旅行しながら自分の死を受け入れようとしていた。ある日、疲れすぎる状態で空港の隅ところでぐったり寝てしまった時だった。神父は短い夢で神様にあったそうだ。其の旅から戻った直後、神父様は全国のカトリック教会を回りながらお金を集めた。私の住んでいるこの島のカトリック信者のなかでは土地一坪寄贈運動も生まれ、その募金にあげた。その神父様の努力のおかげで、実家で家族と生活しにくい学生や大人が供に住む施設が出来上がった。その後、神父さまの体は健康に戻ってその施設の運営と管理に精一杯に頑張った。ある使命を出逢った人の話だ。
使命という言葉は創価学会の池田先生もよくいわれた。どういうわけか分からないけど、先週、池田先生と会う夢を見た。沢山の人々の中で先生が見えたとたん、私は沢山の本を友だちに任せた後、背には赤ちゃんを負って、すぐに走って先生の方に行った。集まった人々は手を前に出して先生と握手をしていた。いよいよ私の番にも先生が来て私の手を握ってくれた。どこの国から来たの?、私は韓国ですっと言った。そしたら何歳?とまた聞いた。私が韓国式ではなく日本式なら52歳だと考え、52さいですっと答えたら、先生は若く見えるねっと褒めてくれた。それから先生は他の人の方に行き、其の集まりが終わった後、また別のところで会うことを約束してくれた。其の嬉しい瞬間、これは夢だろうと思いながら目を覚ました。先生と握手をする時、私は胸のまえに先生のエッセイ本を持っていた。其の本にサインを貰おうと思ったのにそれを忘れてしまったと惜しんだが、夢の中の本なので、目を覚ました後は本のタイトルも思い出さなかった。
自分がやりたい事を分かって、そこに自分の道を作る人に成りたかった。しかし、今になっても私の人生にどんな使命があったかは分からない。ごく普通の人間である私に使命を意味する事が有るはずが無いとも思う。かえって、時々、心の落ちている間には人生で失った事ばかりを思ってしまう。悪い男性との付き合いから始まった運の悪い出来事。それから娘との別れ、繋がって又の悪い縁。それから20代の青年の時代を失って、キャンパスの賑やかな大学生の生活も失った。自分の未来の道を探す機会も失った。そんな時、失った事ばかりの人生には希望も楽しさも見えなかった。勿論、失った事のすべての原因が他人にあると思ったので心から恨みを膨らませた。私の精神には毒の芽が育ってきて、ぬかるみに足がはまったようだった。小さいことに当たってもよく心が折れ、よく気が付く私の性格せいで、人生の自分らしい使命が何か今になっても話せない。
今回は彼に家庭のことを聞いた。お母さんには何時会えるの?と聞いたら、かれは指差しを空を見た。みんな空にいるよ。彼の答えにビックリしたが、彼はまるで隣の村に家族がいる事を知らせるように表情に悲しさが見えなかった。お母さんは交通事故で亡くなって、お父さんはお酒のせいで病気、一人の兄は海の事故でなくなったそうだ。生き残った人は発達障害診断を受けた彼だけ。以前は年寄りのお祖母さんが彼の世話をしながら学校にも通わせたが、今は其のお祖母さんもなくなったそうだ。彼は神父様が自分の家に訪問して連れてきたその時から愛徳の家に住み始めたようだ。彼の細かい事情を聞きながら失った事が多すぎる彼の人生を思った。
しかし、彼の顔は暗くない。心の中に毒の芽も見えないし、他の人を睨む事もない。沢山のことを失って、生まれながら発達障害者である彼と会いながら、私の間違えた考えが頭をよぎった。失ったことばかりを思うこと、自分に素敵な使命が有るはずだと思う事こそが、偉い人に成りたがる私の欲望ではないかと思われた。運が良かったより、運が悪かったことを大きく見ようとする自分の中には、欲張りの姿がある。甘い飲み物の一つにそんなに幸せそうな彼を見ながら、先生は私ではなく彼だっと、思った。
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